「アマチュアリズム」の版間の差分

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==起源==
スポーツを行う資格を限定する規定は[[19世紀]]の前半に、[[イギリス]]で始まったとされる。最初のものといわれるのは[[1839年]]の「[[ヘンリー・レガッタ]]組織委員会」の規定で、その中では出場者を大学・[[パブリックスクール]]・陸海軍[[士官]]・アマチュアクラブに限定していた。これと同じような規定が他の競技でも作られたが、その中には肉体労働者を排除するものが少なくなかった。これらは、当時スポーツ界の中心だったブルジョアジーによる労働者階級の排除を目的とするものである。彼らが自らを[[アマチュア]]と呼んだことから、アマチュアやアマチュアリズムは身分・職業の差別に発するものであるという批判を後世受けることとなった。しかし、スポーツの大衆化が進むに連れて職業差別的な内容は19世紀後半には多くの規定から削除された。
 
クーベルタンはこうしたアマチュアの思想に準拠する一方、[[古代オリンピック]]においては当初勝者は月桂の冠以外の栄誉を受けなかったことに範を取り、オリンピックの参加者はスポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではないとした。
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#プロ選手とともに競技するもの 
#体育教師・トレーナー 
#マネキン的競技者
があげられた。
このうち、3の体育教師・トレーナーについては各国からの不満が相次ぎ、1905年には条件付きでアマチュア認定されることとなった。
 
==ジム・ソープ事件==
初期のオリンピックにおけるアマチュアリズムに関わる事件としては、アメリカの陸上競技選手だった[[ジム・ソープ]]のケースが挙げられる。[[1912年]]の[[ストックホルムオリンピック]]の[[十種競技]][[五種競技]]の金メダリストとなったソープは、野球の[[マイナーリーグ]]でのプレー歴があった(1909年と1910年に、週給25ドルで出場)ことが大会終了後明るみに出たため、翌1913年に金メダル剥奪・記録抹消という厳しい処分を受けた。(70年後の[[1983年]]にIOCはソープの復権を決定し、金メダリストとして認定された。ソープの死去から30年後のことである)
 
==休業補償問題==
労働者階級の選手が大会に出場する場合、その間の賃金を補償すべきかどうかという点が、早い時期から問題になっていた。この件に関し、[[国際サッカー連盟]]はそうした補償を行った選手もアマチュアであると認定したが、IOCはこれを認めず、それが原因で[[1932年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]においてはサッカーが実施されないという事態を招いた。IOCは長い議論の末に[[1962年]]の憲章改正で、オリンピックの参加選手に対する休業補償を認めるに至ったが、これは同時にプロ容認への第一歩でもあった。
 
==アベリー・ブランデージとアマチュアリズムの変容==
4代IOC会長(1952-72年)を務めた[[アベリー・ブランデージ]]は、原理主義的なアマチュアリズムを唱え、「ミスター・アマチュアリズム」と呼ばれた。しかし、皮肉なことに彼の在任中にスポーツを取り巻く環境は大きく変わり、アマチュアリズムとの乖離が進行した。
 
彼がIOC会長に就任した年に開催された[[ヘルシンキオリンピック]]から[[ソビエト連邦|ソ連]]がオリンピックに参加する。このソ連をはじめとする東欧の社会主義諸国は、それらの国においては興行としてスポーツを行う者がいないため、スポーツ選手はすべてアマチュアであると主張していた。しかし、実際には国家によって選抜されたメンバーを専門的にトレーニングするシステムが作られており、彼らはもっぱらトレーニングのみを行っていた。事実上プロに等しいこうした選手は「ステート・アマ」と呼ばれるようになる。