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[[Image:Wilhelmurach.jpg|right|thumb|220px|ミンダウカス2世(ウラッハ公ヴィルヘルム2世)と家族]]
'''ミンダウカス2世''' ('''Mindaugas II''', [[1864年]][[5月30日]] - [[1928年]][[5月24日]])は、[[リトアニア]]の元国王。[[1918年]][[7月11日]]にリトアニア国王に選ばれ、一度も戴冠することができないまま4ヶ月後に廃位された。ドイツ貴族としては'''ウラッハ公ヴィルヘルム2世'''([[ドイツ語]]表記:'''Wilhelm Karl Florestan Gero Crescentius, 2. Herzog von Urach, Graf von Württemberg''','''Wilhelm II von Urach''')だった。廃位後もこの爵位を保持した。
 
[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王家]]の傍系にあたる、初代ウラッハ公[[ヴィルヘルム1世 (ウラッハ公)|ヴィルヘルム1世]]と2度目の妃フロレスティーネの長男として、[[モナコ]]で生まれた。母フロレスティーネは、モナコ大公[[フロレスタン1世]]の娘であった。4歳でウラッハ公位を継承したが、ヴィルヘルムは子供時代の多くをモナコで過ごした。フロレスティーネが、しばしば国を空けて[[海洋学]]者として航海へ出かける甥[[アルベール1世 (モナコ大公)|アルベール1世]]の代理として、政務にいたためだった。この生い立ちから、ヴィルヘルムはフランス好みに育った。
 
ヴィルヘルムは一族のならいとして軍人の道を歩んだ。1890年代にヴュルテンベルク軍に入り、[[第一次世界大戦]]が勃発すると名誉職ではなく職業軍人として将軍職についとなった。1917年に退役するまで、ヴィルヘルムは[[ポーランド]]、[[セルビア]]、[[ベルギー]]を転戦し輝かしい戦績を残した。
 
母を通して、ヴィルヘルムはモナコ大公継承を持つ外戚の一人であった。ヴィルヘルムの従兄アルベール1世には一人息子[[ルイ2世 (モナコ大公)|ルイ]]がいるのみで、ルイは正式な結婚もせず嫡出子もなかった。[[グリマルディ家]]の血を引く男子以外の継承を認めない[[フランス]]は、[[ドイツ人]]の公爵がモナコの支配者となることもまた良しとしなかった。フランスの圧力を受けたモナコは、ルイの庶子シャルロットを承者とする法を1911年に成立させ、シャルロットを祖父アルベール1世と1918年に養子縁組させた。
 
1913年、ヴィルヘルムは[[アルバニア公国|アルバニア公]]候補として名前が挙がった。彼は[[カトリック]]支持者に支援されていた。1914年、選出されたのは[[ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート|ヴィルヘルム・ツー・ヴィート]]([[ルーマニア]]王妃[[エリサベタ (ルーマニア王妃)|エリサベタ]]の甥)だった。
 
1918年7月4日、リトアニア評議会は、新たに独立したリトアニアの王としてヴィルヘルムを招聘することを評決した。ヴィルヘルムはこれを7月11日に受諾し、ミンダウカス2世を名乗ることとなった。ヴィルヘルムが選ばれるにあたって、以下の点が重要視された。
*[[カトリック教会|カトリック]]信者である(リトアニアは古くからカトリック教国であった)
*[[ホーエンツォレルン家]]の一員ではない([[ドイツ帝国|ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は、リトアニアを支配下にくことを望んでいた)
*実績のある軍人である
*戦争の脅威にさらされても、リトアニアは[[ロシア帝国|ロシア]]からの侵攻に対してドイツの協力を期待できる
ヴィルヘルムは評議会との取り決めにより、リトアニアに住み[[リトアニア語]]を話すことが求められた。
 
はじめから、ヴィルヘルムの即位は議論を呼んだ。評議会のメンバー20名のうち4名が反対に回った。り、ドイツはヴィルヘルムを王として認めなかった。ヴィルヘルムはリトアニアを訪問する機会を得ることができず、住まいのあるリヒテンシュタイン城([[シュトゥットガルト]]南方)に留め置かれたままだった。彼はそこでリトアニア語を学び始めた。彼が選ばれてから4ヶ月後の11月、第一次世界大戦でドイツが敗戦することが濃厚となった。リトアニア評議会は、ヴィルヘルムを王とする決定を覆し、共和国としての独立の道を選択した。
ヴィルヘルムは評議会との取り決めにより、リトアニアに住み[[リトアニア語]]を話すことが求められた。
 
はじめから、ヴィルヘルムの即位は議論を呼んだ。評議会のメンバー20名のうち4名が反対に回った。ドイツはヴィルヘルムを王として認めなかった。ヴィルヘルムは、リトアニアを訪問する機会を得ることができず、住まいのあるリヒテンシュタイン城([[シュトゥットガルト]]南方)に留め置かれたままだった。彼はそこでリトアニア語を学び始めた。彼が選ばれてから4ヶ月後の11月、第一次世界大戦でドイツが敗戦することが濃厚となった。リトアニア評議会は、彼を王とする決定を覆し、共和国としての独立の道を選択した。
 
==家族==
1892年、[[バイエルン王国|バイエルン]]の王家[[ヴィッテルスバッハ家]]の傍系出身の[[アマーリエ・イン・バイエルン]](1865年 - 1912年)([[カール・テオドール・イン・バイエルン]]の長女)と結婚した。アマーリエは、[[ポーランドリトアニアが同君連合だった頃]]時代の王である[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]と[[スタニスワフ・レシチニスキ]]の血を引いており、このこともヴィルヘルムがリトアニア王に選ばれる要素となっていた。9子をもうけた。
*マリー・ガブリエーレ(1893年 - 1908年)
*エリーザベト(1894年 - 1962年) リヒテンシュタイン公子カールの妻
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*マルガレーテ(1901年 - 1975年)
*アルプレヒト(1903年 - 1969年)  
*エベルハルト(1907年 - 1969年) トゥルン・ウント・タクシス公女イニガと結婚。4代ウラッハ公ヴィルヘルム・アルベルトの父
*メヒティルド(1912年 - 2001年) ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスファルスト公子フリードリヒ・カールの妻
 
1924年、ヴィルトルート・フォン・バイエルン(1884年 - 1975年、[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]の娘)と再婚する。子供はなかった。
 
{{先代次代|リトアニア王|[[1918年]]|―|リトアニア共和国成立}}