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[[Image:Wilhelmurach.jpg|right|thumb|220px|ミンダウカス2世(ウラッハ公ヴィルヘルム2世)と家族]]
'''ミンダウカス2世'''
[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王家]]の傍系にあたる、初代ウラッハ公[[ヴィルヘルム1世 (ウラッハ公)|ヴィルヘルム1世]]と2度目の妃フロレスティーネの長男として、[[モナコ]]で生まれた。母フロレスティーネは、モナコ大公[[フロレスタン1世]]の娘であった。4歳でウラッハ公位を継承したが、
母を通して、ヴィルヘルムはモナコ大公位継承
1913年、ヴィルヘルムは[[アルバニア公国|アルバニア公]]
1918年7月4日、リトアニア評議会は、新たに独立したリトアニアの王としてヴィルヘルムを招聘することを評決した。ヴィルヘルムはこれを7月11日に受諾し、ミンダウカス2世を名乗ることとなった。
*[[カトリック教会|カトリック]]信者である(リトアニアは古くからカトリック教国であった)
*[[ホーエンツォレルン家]]の一員ではない([[ドイツ帝国|ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は、リトアニアを支配下に
*実績のある軍人である
*戦争の脅威にさらされても、リトアニアは[[ロシア帝国|ロシア]]からの侵攻に対してドイツの協力を期待できる
ヴィルヘルムは評議会との取り決めにより、リトアニアに住み、[[リトアニア語]]を話すことが求められた。▼
はじめから、ヴィルヘルムの即位は議論を呼んだ。評議会のメンバー20名のうち4名が反対に回
▲ヴィルヘルムは評議会との取り決めにより、リトアニアに住み[[リトアニア語]]を話すことが求められた。
▲はじめから、ヴィルヘルムの即位は議論を呼んだ。評議会のメンバー20名のうち4名が反対に回った。ドイツはヴィルヘルムを王として認めなかった。ヴィルヘルムは、リトアニアを訪問する機会を得ることができず、住まいのあるリヒテンシュタイン城([[シュトゥットガルト]]南方)に留め置かれたままだった。彼はそこでリトアニア語を学び始めた。彼が選ばれてから4ヶ月後の11月、第一次世界大戦でドイツが敗戦することが濃厚となった。リトアニア評議会は、彼を王とする決定を覆し、共和国としての独立の道を選択した。
==家族==
1892年、[[バイエルン王国|バイエルン]]の王
*マリー・ガブリエーレ(1893年 - 1908年)
*エリーザベト(1894年 - 1962年) リヒテンシュタイン公子カールの妻
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*マルガレーテ(1901年 - 1975年)
*アルプレヒト(1903年 - 1969年)
*エベルハルト(1907年 - 1969年) トゥルン・ウント・タクシス公女イニガと結婚。第4代ウラッハ公ヴィルヘルム・アルベルトの父
*メヒティルド(1912年 - 2001年) ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスファルスト公子フリードリヒ・カールの妻
1924年、ヴィルトルート・フォン・バイエルン(1884年 - 1975年、[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]の娘)と再婚する。子供はなかった。
{{先代次代|リトアニア王|[[1918年]]|―|リトアニア共和国成立}}
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