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== クールラント公国(1561-1795) ==
1525年[[プロイセン]]地域のドイツ騎士団領が単独で世俗化し、リヴォニア地域の騎士団領は孤立した。[[イヴァン4世]]のモスクワ大公国の脅威に対抗するため、リヴォニアの騎士団は1651年、ポーランドに臣従して世俗の公国となる。化し、[[プロテスタント]]信仰も許され、領邦国家クールラント公国となった。時の団長ゴットハルト・ケトラーの子孫が公位を継承し、首都はミタウ(現在の[[イェルガヴァ]])におかれた。国政は公爵と貴族による合議政体がとられた。
 
公国は長期にわたる[[リヴォニア戦争]]で、多くの旧騎士団領近隣国家に奪われつつも、生き延びた。通商や産業の発展に努めた。17世紀中葉までに経済的繁栄を迎え達成して、一時は西アフリカの[[ジェームズ島 (ガンビア)|聖アンドレ島]]、[[カリブ海]]の[[トバゴ島]]を植民地とした([[クールラントによるアメリカ大陸の植民地化]]参照)。しかし17世紀後半には、再びバルト海の強国同士の戦争に巻き込まれ、衰微していった。また歴代公爵による宮殿や[[庭園]]、[[温室]]などの贅を尽くした建築事業も国庫を圧迫した。
 
第6代公爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー(在位1698年~1711年)は1710年、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル大帝]]の姪[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]を妻に迎えた。この第6代当主は翌年子供のないまま急死したが、アンナはそのまま公国の主権者となり、フリードリヒ・ケトラーを摂政とした。アンナは1730年にロシア女帝となったため、フェルディナント・ケトラー(在位1731年~1737年)に統治を任せた。アンナの治世間に、公国はポーランドの宗主権を認めつつ、事実上ロシア帝国に組み込まれた。彼女の寵臣[[エルンスト・ビロン]]やポーランド国王の子息が公爵を務めたのち、1795年の第三次[[ポーランド分割]]で正式にロシアに併合された。女帝アンナの治世には、建築家[[バルトロメオ・ラストレッリ|ラストレッリ]]の手になる、[[ロシア・バロック]]様式の優美な諸宮殿が築かれた。また亡命中の[[ルイ18世]]は、ミタウの宮殿に一時滞在していた。