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[[リヴォニア]]地方の中部地域にあたり、古くから[[バルト語族|バルト語系]]の[[ラトヴィア人]]が居住していた。その語源は支族クール人に由来する。スウェーデンに伝わる[[サガ]]には、[[ヴァイキング]]が9世紀まで支配したとあるが定かでない。、13世紀始めに[[ドイツ]]から攻め込んだ[[リヴォニア帯剣騎士団]]に征服され、1237年に[[ドイツ騎士団]]領に吸収された。また沿海地域の一部にはクールラント司教区が設置された。クールラントはリヴォニアの他地域と同じくドイツ人の入植地となり、入植者とその子孫は[[バルト・ドイツ人]]と称された。その社会構造は、バルト・ドイツ人の支配階層がラトヴィア人農民を支配する、典型的な[[植民地]]型である。この構造は20世紀に至るまで長く続いた。
クールラントは1561年に世俗国家を形成する。16‐17世紀にかけて[[バルト帝国]]を形成していた[[スウェーデン]]と、[[ポーランド・リトアニア連合]]の盟主[[ポーランド王国]]との対立の中で、主な係争地帯リヴォニアにおける[[緩衝国家]]として機能した。18世紀には[[大北方戦争]]で一時スウェーデンに占領されたが、やがて強大化した[[ロシア帝国]]の支配下に入り、1795年に併合されてクールラント県とされた。19世紀は[[家畜]]繁殖や[[乳製品]]の生産で知られた。1920年8月、民族国家ラトヴィアが共産化したロシア([[ソ連]])から独立すると、その一部として現在に至っている。
== クールラント公国(1561-1795) ==
1525年[[プロイセン]]地域のドイツ騎士団領が単独で世俗化し、リヴォニア地域の騎士団領は孤立した。[[イヴァン4世]]の[[モスクワ大公国]]の脅威に対抗するため、リヴォニアの騎士団は1651年、ポーランド王[[ヤン2世]]に臣従して世俗化し、[[プロテスタント]]領邦国家クールラント公国となった。時の団長ゴットハルト・ケトラー(初代、在位1562年~1587年)の子孫が公位を継承し、首都はミタウ(現在の[[イェルガヴァ]])におかれた。国政は公爵と貴族
多くの旧騎士団領が近隣国家に分割されていく中で、公国は長期にわたる[[リヴォニア戦争]]
第6代公爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー(在位1698年~1711年)は1710年、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル大帝]]の姪[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]を妻に迎えた。この第6代当主は翌年子供のないまま急死したが、アンナはそのまま公国の主権者となり、フリードリヒ・ケトラーを摂政とした。アンナは1730年にロシア女帝となったため、フェルディナント・ケトラー(在位1731年~1737年)に統治を任せた。アンナの治世間に、公国はポーランドの宗主権を認めつつ、事実上ロシア帝国に組み込まれた。彼女の寵臣[[エルンスト・ビロン]]やポーランド国王の子息が公爵を務めたのち、1795年の第三次[[ポーランド分割]]で正式にロシアに併合された。女帝アンナの治世には、建築家[[バルトロメオ・ラストレッリ|ラストレッリ]]の手になる、[[ロシア・バロック]]様式の優美な諸宮殿が築かれた。また亡命中の[[ルイ18世]]は、ミタウの宮殿に一時滞在していた。▼
▲第6代公爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー(在位1698年~1711年)は1710年、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル大帝]]の姪[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]を妻に迎えた。この第6代当主は翌年子供のないまま急死したが、アンナはそのまま公国の主権者となり、フリードリヒ・ケトラーを摂政とした。アンナは1730年にロシア女帝となったため、フェルディナント・ケトラー(在位1731年~1737年)に統治を任せた。女帝アンナの治世間に、公国は弱体化したポーランドの宗主権
==外部リンク==
*[http://nekhet.ddo.jp/ruler/kurland.html 歴代クールラント公]
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