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'''久世 広文'''(くぜ ひろふみ)は、[[下総国|下総]][[関宿藩]]の第8代[[藩主]]。関宿藩久世家8代。
 
== 来歴 ==
嘉永6年(1853年)12月10日、第7代藩主久世広周の長男として生まれる。[[文久]]元年([[1861年]])3月16日、[[老中]]広周が[[安藤信正]]と関係を深めるためにそ、信正の娘と広文を婚約させを願っが、ものの[[江戸幕府|幕府]]の許可が無かったために結婚までには至ず、明治2年([[1869年]])10月23日に至って婚約解消している。文久2年([[1862年]])8月16日、父が[[老中]]であったとき広周は幕政の失政などを理由に強制[[隠居]]処分にたため、[[家督]]を継いで第8代藩主とな相続するが、このときに158000減封され、久世氏は5万8000石の[[大名]]となる。さらに広周が11月20日に父が永蟄居処分に下され1万石をさらに減封されて4万8000石となった。
 
若年のため、藩政は家臣団によって行なわれ、農兵の徴集や[[天狗党の乱]]鎮圧などに参加している。[[慶応]]元年([[1865年]])12月25日に従五位下・出雲守に叙位・任官する。慶応4年([[1868年]])2月2日に隠岐守に遷任する
 
[[戊辰戦争]]では佐幕派として[[江戸城]]守備に詰めていたが、藩内の主導権をめぐって佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、た。佐幕派江戸にあった広文を確保して深川に移し、広文これり戻そしようとする尊王派と争う有様だったが、局は果、佐幕派が主導権を握り、とる。佐幕派は[[万宇隊]]を結成してするなど[[彰義隊]]と協力して新政府軍と戦ったが敗れ広文らは下総[[佐倉藩]]を頼って亡する。後に関宿藩に帰国したが、新政府の命令で謹慎を命じられた。だが、家臣の藩主による助命の嘆願運動などもあって、明治元年(1868年)12月7日に広文は5000石減封と強制隠居の上で家督処分弟で[[養子]]の久世広業に譲ることうけ、官位剥奪などの処分で許された。
 
明治2年([[1869年]])9月28日に罪を許され、10月13日には官位も元に復されている。明治32年(1899年)10月に死去。享年47。墓所は[[東京都]][[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]]の[[谷中霊園]]。
 
{{先代次代|[[関宿藩|久世氏(関宿藩8代)藩主]]|1862年 - 1868年|[[久世広周]]|[[久世広業]]}}