「島津綱貴」の版間の差分

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正室は[[松平信平]]女。後室は[[上杉綱憲]]養女・鶴姫(実父・[[吉良義央]])を娶ったが、[[延宝]]8年([[1680年]])に離縁している。以後は側室で亀姫の生母のお豊の方(家臣・江田国重の娘)を対外的に「継室」と称した。子に[[島津吉貴|吉貴]]、亀姫([[近衛家久]]室)、栄([[松平定英]]室→[[阿部正福]]室)ら。官位は[[従四位上]]。薩摩守。左近衛中将。
 
慶安3年(1650年)10月、第2代藩主・光久の嫡孫として生まれた。[[延宝]]元年([[1673年]])、父の綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。[[貞享]]4年([[1687年]])7月、光久が隠居したため、家督を継いだ。家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による[[寛永寺]]本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した。ちなみに、この時の普請の奉行は[[禰寝清雄]]、副奉行はその婿で綱貴の叔父の[[島津久明]]が勤める
 
このように藩政は緊張をはらんだ物であったが、諸大名を辛辣な評価をしたことで知られる史料『[[土芥寇讎記]]』では数少ない「領民や藩士から慕われる殿様」として紹介されている。