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[[Image:Pierre d'Ailly.jpg|thumb|ピエール・ダイイ]]
'''ピエール・ダイイ'''('''ペトルス・デ・アリアコ''')(Pierre d’Ailly or Petrus de Alliaco, [[1351年]] - [[1420年]][[8月9日]])は、[[フランス]]において非常に影響力のあった[[神学者]]。[[コンスタンツ公会議]]でも重要な役割を果たした他、多方面に渡る膨大な著作を残した。
== 生涯 ==
ダイイは[[コンピエーニュ]]の繁盛していた肉屋の子として生まれた。1364年頃から[[パリ]]の[[コレージュ・ド・ナヴァル]]で学び、1381年に[[神学]]のmaîtreとなり、1384年には同コレージュの講師となった。彼は1389年には国王[[シャルル6世_(フランス王)|シャルル6世]]付きの礼拝堂牧師となり、同年に[[パリ大学]]総長に任命された。彼が教え子の中で特に目をかけていたのは、[[ジャン・ジェルソン]]である。ジェルソンは後年ダイイの友となり、パリ大学総長の座を引き継ぐことにもなる。
当時は[[教会大分裂]]期であった。ダイイはその中で[[アヴィニョン]]の
彼は1411年に、[[ピサ]]の対立教皇[[ヨハネス23世_(対立教皇)|ヨハネス23世]]によって[[枢機卿]]に任命され、1413年には[[ドイツ]][[教皇特使]]に任命された。しかし、彼は[[コンスタンツ公会議]]ではその庇護を放棄する形で、教会大分裂終息のために、新教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]の擁立に関する主導的な役割を果たした。この公会議では、彼は、教会のみならず社会的にも脅威と判断した[[ヤン・フス]]の有罪宣告にも尽力した。
彼はマルティヌス5世によって、教皇特使としてアヴィニョンに派遣され(1418年)、その地で1420年に没した。
== 学説 ==
当時の歴史における彼の重要性は、論を俟たないところであるとしても、
哲学・神学上の位置付けとしては、彼は[[14世紀]]の[[パリ大学]]における[[オッカム主義]]的[[唯名論]]の代表者の一人である。この分野における彼の作品で最も興味深いものは、[[ピエール・ロンバール]]の『サンタンス』への注釈である。彼はその中で、とりわけ彼の先行者である[[オッカムのウィリアム]]、[[ジャン・ド・ミルクール]]、[[リミニのグレゴリオ]]らに依拠しつつ、信仰上の教理を論理的な分析に従属させている。彼はその分析において、(無矛盾の原則にのみ規定される)神の絶対的権能と、(神が望む世界の秩序に一致する)命じられた権力とを改めて峻別している。そこには、少数の絶対的証明と、(常に絶対神の権能のあり得る干渉に従属する)条件付き証明とが存在する。
ダイイの哲学作品の中では、差し当たり『[[魂に関する論]] ''Tractatus de anima'' 』を挙げておく。しかしながら、この作品集の大半は、(「
ダイイはまた、科学(主として[[宇宙誌]] Cosmography )の普及に関する著書も残している。それらの中でも、地理的・百科事典的な名高い著書『イマゴ・ムンディ(世界像) ''Imago Mundi'' 』は、[[クリストファー・コロンブス]]が所有し、丹念に註を付けていたことで知られている。そして、コロンブスの[[アメリカ大陸]]到達に際して同書が果たした役割は、ダイイの名を高からしめるものとなっている。
他方で、師であった[[ニコル・オレーム]]や教え子であった[[ジェルソン]]とは異なり、ダイイは諸事件の推移に果たす[[星辰]]の影響に魅せられていた。彼は、[[占星術]]と歴史、あるいは占星術と神学との一致を示す為に、(天体の)大会合の理論に依拠した。彼の占星術に関する著作のいくつかの章句を解釈した結果として、ダイイが、[[マルティン・ルター]]の[[宗教改革]]や[[フランス革命]]を予言していたとする者もいる(彼の予言は、[[ピエール・チュレル]]、[[リシャール・ルーサ]]らに影響を及ぼした)。彼はまた、[[ユリウス暦]]の改革にも関心を示していた。
彼は、他にも書簡、説教集([[ラテン語]]のもの、[[フランス語]]のもの)、フランス語による詩集なども残している。なお、上記で書名を挙げた著書などは、[http://gallica.bnf.fr/ ガリカデジタル図書館(フランス国立図書館)]で見ることができる。
[[Category:キリスト教神学者|たいい ひえる]]
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