「テオドール・シャセリオー」の版間の差分

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シャセリオーは、カリブ海に浮かぶ[[イスパニョーラ島]]のサマナ(現[[ドミニカ共和国]])に生まれた。父親はフランス人で、島がまだフランスの植民地([[サン=ドマング]])だった頃は行政職だった。母親は[[クレオール]]の地主の娘だった。[[1821年]]、家族は[[パリ]]に移り、そこでシャセリオーはスケッチに早熟な才能を見せた。[[1830年]]、11歳の時、シャセリオーは[[ドミニク・アングル|アングル]]のアトリエに入ることを認められ、この[[新古典主義]]巨匠の愛弟子となった。アングルは人々にこう言ったそうだ。「見たまえ、紳士諸君。この子はきっと絵のナポレオンになるよ」<ref>Guégan et al., 2002, p. 168.</ref>。
 
[[1834年]]、アングルが[[ローマ]]のフランス・アカデミー院長を務めるためパリを離れた後、シャセリオーは、アングルがその着色法をひどく嫌っていた[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の影響に傾いた。シャセリオーの絵の特徴でよく言われてきたのが、アングルの新古典主義とドラクロワのロマン主義を調和させる試み、ということだ。[[1836年]]、シャセリオーは[[芸術アカデミー#サロン・ド・パリ|サロン]]に最初の絵の出品をした。その絵は[[歴史画]]のジャンルで、第3席に選ばれた<ref>Guégan et al., 2002, p. 170.</ref>。[[1840年]]、シャセリオーはローマに旅行しアングルと再会したが、アングルは愛弟子の向かっている方向性を面白く思うはずがなく、師弟関係も解消された。
 
[[Image:Banquo.jpg|left|thumb|300px|テオドール・シャセリオー『バンクォーの亡霊』(1854年)油彩、木、54 x 64 cm/ボザール美術館]]