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金 = 1億6665万2400円|
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'''タケホープ'''は[[日本]]の[[競走馬]]である。[[ハイセイコー]]のライバルとされ、[[東京優駿|日本ダービー]]、[[菊花賞]]、[[天皇賞|天皇賞(春)]]等に勝った。姉に[[優駿牝馬]]を勝った[[タケフブキ]]がいる。
[[タケフブキ]]がいる。
 
== 略歴 ==
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[[1972年]][[7月15日]]に[[東京競馬場]]で行われた新馬戦でデビュー、1番人気に応え勝利する。ところが、2勝目をあげるのに手間取り、結局2勝目(若竹賞)は年も明けた[[1973年]]1月のことだった。その後[[皐月賞]]を目指して東京4歳ステークス、[[弥生賞]]と挑戦するも3、7着に敗れる。なお、この弥生賞の勝ち馬は、「怪物」と呼ばれた[[ハイセイコー]]であった。次戦、東京の四歳中距離特別でサクラチェスにハナ差の勝利を収め、日本ダービー出走にこぎつける。この時、タケホープ主戦の[[嶋田功]]騎手(現・調教師)は、「ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」という発言をしたが、周囲やマスコミには皮肉としか受け取られなかったようである<ref>この発言を嶋田から引き出したのは、日本における元騎手の[[競馬評論家]]第1号として知られる[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]である。</ref>。だが、嶋田と、タケホープを管理する[[稲葉幸夫]]調教師は、それなりの勝算を持っていたという。
 
単勝支持率66.6%という圧倒的支持を得たハイセイコーに対し、タケホープは9番人気。最後の直線で先頭に立ったハイセイコーにタケホープが襲い掛かり、抜き去ったとき、東京競馬場には悲鳴とどよめきが轟いたという。結局ハイセイコーは1秒弱離れた3着に敗れ、タケホープが第40代のダービー馬に輝いた。なお、[[田原成貴]]はこのレースを観て騎手になろうと決心をした。
 
その後も、ハイセイコーとの対決は続く。秋初戦の[[京都新聞杯]]ではハイセイコー2着に対し、タケホープは6番人気と舐められた上8着と大敗。そして、[[クラシック (競馬)|クラシック]][[三冠 (競馬)|三冠]]の最終戦の菊花賞では、嶋田が落馬負傷するというアクシデントで急遽[[武邦彦]]に乗り変わり、またもや6番人気と舐められたタケホープが、ハイセイコーをハナ差で下し、[[二冠馬]]となる([[2006年]]現在日本ダービーと菊花賞の二冠馬はタケホープの他には[[クリフジ]]のみ…どちらも皐月賞不参戦馬である)。そして年末には、この歳の年度代表馬、及び最優秀4歳牡馬に選出された。
 
翌[[1974年]]、[[アメリカジョッキークラブカップ]]をタケホープが([[小島太]]騎乗)、[[中山記念]]をハイセイコーが制し、満を持して臨んだ春の天皇賞では、タケホープがやはり長距離適性の優を生かし、ハイセイコーを下す。しかしこれが、結果的にタケホープがハイセイコーに先着した最後のレースとなった。[[宝塚記念]]を制したハイセイコーと、じっくり休養したタケホープは秋に再戦することになるのだが、[[有馬記念]]とその前哨戦のオープンで2度対決する。結果、ハイセイコーが2戦とも2着だったのに対し、タケホープはオープンが5着、有馬記念は3着と、いずれも後塵を拝した。
 
タケホープとハイセイコーの対決は、タケホープが4勝5敗で1差負け越す結果となった。もっとも、タケホープの4勝の全てが自ら勝利したと同時のもの(しかもそのうち3勝が[[八大競走]])であるのに対し、ハイセイコーの5勝は弥生賞・中山記念のふたつが1着でゴールした以外は自らの勝利を伴わないものばかりであり、額面通りに受けべき数字でかどうかないことは明ら解釈が分である。また、ハイセイコーはタケホープに対して2400m以上のレースはラストランとなった有馬記念以外全敗したこており、長距離になるから、タケホープは[[競走馬#ステイヤー|ステイヤー]]だに分がある結果となったとも言える
 
=== 引退後 ===
[[1975年]]から[[種牡馬]]生活に入った。だが、タケホープはこれといって活躍馬を出せずに終わる(代表産駒は[[アルゼンチン共和国杯]]2着のミナガワローレル)。同時に種牡馬入りしたハイセイコーが[[カツラノハイセイコ]]などの活躍馬を輩出したことを考えれば、タケホープは種牡馬としてはを付、とられてうことになのだろうか。血統的にも昔ながらの重厚なステイヤーの血が濃く、他の似たような血統を持つ他の種牡馬と同様、活躍馬を残せなかった。
 
[[1994年]]にタケホープはこの世を去った。墓は生まれ故郷である[[北海道]]・[[浦河町]]の[[谷川牧場]]に建てられている。この牧場は[[シンザン]]が種牡馬生活を送った牧場でもある。そしてタケホープの[[死]]から6年後の[[2000年]]、生涯を通して[[ライバル]]だった[[ハイセイコー]]も遂に世を去り、10年後の2004年にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」としてタケホープメモリアルが中山競馬場で施行された。