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'''フランソワ・ドヴィエンヌ'''('''François Devienne''', [[1759年]][[1月31日]] - [[1803年]][[9月5日]])は[[18世紀]][[フランス]]の作曲家・[[木管楽器]]奏者。[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]の[[フルート]]教授を務めた。
 
[[オート=マルヌ県]]のジョワンヴィルに、鞍[[職人]]の家庭に生まれる。14児の末子であった。地元で聖歌隊員として最初の音楽教育を受ける。[[1780年]]に[[フルート]]をフェリックス・ロー(Félix Rault)に師事し、ドゥ・ロアン枢機卿の執事に加わる。様々なパリのアンサンブルでソリストや楽団員として演奏活動を始め、フルートや[[ファゴット]]を演奏、ファゴット奏者として[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]にも加わっている。作曲家として[[1790年代]]にいくつかのオペラで成功し、とりわけレ・ヴィジタンディーヌ』(''Les visitandines'', 》([[1792年]])は大成功であった。
 
ドヴィエンヌはフランス防衛軍軍楽隊の、[[軍曹]]称号階級を持つ隊員であり、無料音楽学校で軍楽隊の同僚の子女に指導する義務を負わされていた。[[フランス革命]]の時期に無料音楽学校が国立音楽学校となり、[[1795年]]に[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]に改組されると、ドヴィエンヌは学校管理者とフルートの教授に任命された。重要なフルート教則本『フルート演奏の理論と実践』(''Méthode de Flûte Théorique et Pratique'', 』([[1793年]])を上梓する。これは何度も版を重ね、[[18世紀]]後半におけるフランス[[吹奏楽]]の向上に大きく貢献した。他の多くの音楽家と同様、ドヴィエンヌも[[フリーメイソン]]入会者であり、(会員の多いオーケストラ)コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ・オランピック(''Concerts de la Loge Olympique'' )の団員であった。
 
[[1803年]]にパリ近郊シャラントンの療養所で亡くなる。おそらく[[過労死]]であったと思われる。
 
約300曲に上る器楽曲は、ほとんどが管楽器のために作曲されている。10曲ほどの[[フルート協奏曲]]と4曲の[[ファゴット協奏曲]][[吹奏楽のための交響曲]]、様々な楽器のための三重奏曲や四重奏曲がある。[[オペラ]]は12曲ある。優雅な旋律様式から、「フランスのモーツァルト」と呼ぶ向きもある。
 
=== 関連リンク ===
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[[Category:1803年没|とういえんぬ ふらんそわ古典派の作曲家]]
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