「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)」の版間の差分

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父の[[プスコフ]]逃亡中にプスコフで生まれる。その善良さが時の大公にして叔父であったヴァシーリーの妬みを買い、両者は不和に陥るが後に和解(1363年)。1364年にはペストで死去した従兄弟のセミョンからドロゴブシを遺贈されたが、セミョンの兄弟エレメイがこれに抗議し、最終的にトヴェリ主教の裁定を仰ぐ。主教ヴァシーリーは、ミハイルにドロゴブシの所有権を認める裁定を出す。
 
このようなミハイルの強大化は、大公ヴァシーリーとの再度の関係悪化を招く。ヴァシーリーは時の[[モスクワ大公]][[ドミトリイ・ドンスコイ]]に支援を求める。他方ミハイルは[[リトアニア大公国]]に支持を求めた。1366年には、ミハイルのリトアニア滞在中に、ミハイル支持に動いたトヴェリ市民を大公ヴァシーリーと上記エレメイが鎮定しようとするが、これは失敗におわる。リトアニアの支援を受けたミハイル麾下の軍勢はトヴェリを解放し、エレメイと大公ヴァシーリーの妃を捕らえ、ヴァシーリーの本拠地[[カシン]]に接近する。ここで和平が結ばれ、同時にミハイルはモスクワのドミトリイ大公、そしてエレメイとも和平を締結する。最終的にドロゴブシに対するミハイルの領有が確定する。
 
しかし、納得のいかないエレメイは、1367年にモスクワに逃亡し、大公ドミトリイに支援を求める。この気を逃さず、ドミトリイはエレメイの庇護を宣言する。ミハイルは府主教アレクシーの言葉を信じ、仲裁裁判のためにモスクワに行くが、これを大公ドミトリイが逮捕、投獄する。しかし、この裏切り行為に関してはタタールからも抗議を受け、ドミトリイはミハイルの釈放を余儀なくされる。両者は和解する。1368年にはトヴェリ大公ヴァシーリーが死去し、ミハイルはトヴェリ大公になる。