削除された内容 追加された内容
Masyu (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
 
慈円は[[藤原忠通]]と[[加賀局]]([[藤原仲光]]の娘)の子で忠通の第六子、[[九条兼実]]の弟。
 
幼いときに[[青蓮院]]に入寺し、[[1167年]]([[仁安 (日本)|仁安]]2年)[[天台座主]][[明雲]]について受戒。[[1192年]]([[建久]]2年)、38歳で天台座主になる。その後慈円の天台座主就任は4度に及んだ。天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兼実の孫[[九条道家|道家]]の後見人を務めるとともに、道家の子[[藤原頼経]]が[[征夷大将軍|将軍]]として[[鎌倉]]に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。[[後鳥羽上皇]]の挙兵の動きには[[西園寺公経]]とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、[[承久の乱]]によって後鳥羽上皇とともに兼実の曾孫である[[仲恭天皇]](道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、[[鎌倉幕府]]を非難して仲恭復位を願う願文を納めている(貞応3年正月慈円願文(『鎌倉遺文』3202号))。また、『[[門葉記]]』に採録された[[覚源 (天台宗)|覚源]]([[藤原定家]]の子)の日記(仁治3年正月24日条)には、没後に慈円が[[四条天皇]]を祟り殺したとする噂を記載している
また、当時異端視されていた[[専修念仏]]の[[法然]]や弟子の[[親鸞]]を庇護してもいる。なお、親鸞は[[1181年]]9歳の時に慈円について得度を受けている。
 
また、当時異端視されていた[[専修念仏]]の[[法然]]の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の[[親鸞]]を庇護してもいる。なお、親鸞は[[1181年]]9歳の時に慈円について得度を受けている。
 
歌人としても有名で家集に『[[拾玉集]]』があり、『[[千載和歌集]]』などに名が採り上げられている。