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福島県大沼郡川西村西方の旧会津藩士の家に生まれる。旧制会津中学校(現会津高校)を卒業後、一高の臨時中学校養成所に進んだ。その後、1908年、京都帝国大学理学部化学教室に助手となり、中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発した。
この技術を元にして,大正9年に[[日本曹達]]を設立し,苛性ソーダ、晒粉の生産を開始した.会社は第一次世界大戦による不況の中,順調に業績を伸ばしていった.また,電解ソーダの副生物から次々に新規製品を生産していったが,満州事変を契機に,多角化する製品の中にも軍事色が濃くなっていく事になる.
この頃,中野は「芋づる式」と呼ばれる事業展開で、無機化学から有機化学,人絹、金属精錬、鉱業、と傘下企業を増やし,会社は重化学工業から発展した新興財閥の一つに数えられた.昭和15年で傘下企業は42社まで増え,[[日曹コンツェルン]]と呼ばれた.しかし,この急激な成長に会社の資金は枯渇し,組織内に金融機関を持たない新興財閥である日曹コンツェルンは,[[日本興業銀行]]などの国家資金と結びついていった.
また,日本が中国との戦争に泥沼化し,国内の株式が低迷する中,急激に増やした傘下の企業の中にも不採算になる会社が出始め業績は悪化していった.そして,この苦境の中,陸軍からの軍需物資の増産要請で,銀行からの融資を取り付けるため,中野は昭和15年に社長から退陣した.戦後,昭和20年に日曹コンツェルンは
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