「広安門事件」の版間の差分

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廿粁 (会話 | 投稿記録)
当時中国軍は華北には集結しえず、註記が妥当
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北平居留民保護の為に日本軍は中国軍の諒解を得た上で北平に向っていた。午後四時、広安門([[:zh:廣安門]])に着いたが、[[郎坊事件]]などにより中国側の態度は硬化しており、[[秦徳純]]の命令により門は閉ざされていた。折衝の上、午後7時に開門したが、先頭のトラック三両が通過したとき{{要出典}}、これに気づいた中国兵が城壁上から発砲をしはじめ日本軍は分断され戦闘状態となった。
 
当時、既に中国軍は北支([[華北]]に多数集結し、また[[豊台区|豊台]]に於いては完全に日本軍を包囲しており、緊迫の度が高まっていた。この事件は、25日の郎坊事件などとともにに於いて事態を左右する重大事となった。
 
==関連事項==
*[[日中戦争]]
*[[北支事変]]
*[[蘆溝橋事件]]
*[[通州事件|通州虐殺事件]]
*[[蘆溝橋事件]]
*[[北支事変]]
*[[日中戦争]]
*[[梅津・何応欽協定]]
 
{{DEFAULTSORT:こうあんもんしけん}}