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'''ブラジル帝国'''('''Império do Brasil''')は[[1822年]]から[[1889年]]まで[[南アメリカ|南米]][[ブラジル]]を統治した[[立憲君主制]][[国家]]。▼
{{基礎情報 過去の国
|略名
|日本語国名
|公式国名 = <b
|建国時期
|亡国時期
|先代1
|先旗1
|次代1
|次旗1
|国旗画像
|国旗リンク =
|国章画像 = Brazilimperialblason2.svg▼
|国
|国
|国旗縁 =
|標語 = {{lang|pt|Independência ou Morte!}}<br>([[ポルトガル語]] "独立か死か!")▼
|国歌名 = ▼
|国章リンク =
|国章説明 =
|公用語 = [[ポルトガル語]]▼
|国章幅 =
|首都 = [[リオ・デ・ジャネイロ]]▼
|国歌名 = 独立賛歌
|元首等年代始1 = [[1822年]]▼
|国歌追記 =([[w:en:Hino da Independência|en]])
|元首等年代終1 = [[1831年]]▼
|位置画像 = Brazil provinces 1889 updated.png
|元首等氏名1 = [[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ドン・ペドロ1世]]▼
|位置画像説明 =
|元首等年代始2 = [[1831年]]▼
|元首等年代終2 = [[1840年]]▼
|元首等
|元首等年代
|元首等
|人口測定時期1 = 1889年▼
|人口値1 = 14,333,915▼
|元首等氏名2 = [[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]
|変遷年月日1 = [[1822年]][[10月12日]]▼
|首相等肩書 = [[w:en:Prime Minister of Brazil|閣僚評議会議長]]
|
|通貨 = [[レアル]]▼
|首相等氏名1 = [[w:pt:Manuel Alves Branco|マヌエル・アウベス・ブランコ]](初代)
|注記 = <references/>▼
|首相等年代終2 = [[1889年]][[11月15日]]
|首相等氏名2 = [[w:pt:Afonso Celso de Assis Figueiredo|アフォンソ・セルソ・デ・アシス・フィゲイレド]](最後)
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|変遷年月日1 = [[ポルトガル王国|ポルトガル]]より[[独立]]
|変遷2 = [[1889年]][[11月15日]]
|変遷年月日2 = 共和国宣言
|時間帯 =
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
}}
▲'''ブラジル帝国'''('''Império do Brasil''')は[[1822年]]から[[1889年]]まで[[南アメリカ|南米]][[ブラジル]]を統治した[[立憲君主制]][[国家]]。
==歴史==
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ポルトガル皇太子ドン・ペドロはポルトガル王位継承権をもったまま、ポルトガル本国の意に反してブラジル皇帝となった。[[1825年]]当時ポルトガルに絶大な影響力をもつ[[イギリス]]がブラジルの[[独立]]を承認し、[[アメリカ合衆国]]の介入を警戒してポルトガルにもブラジルを承認させた。同年[[フアン・アントニオ・ラバジェハ]]の[[シスプラチナ州]]潜入により、1821年に併合した[[東方州]]はブラジルからの独立と、アルゼンチンへの編入を求めて独立戦争を開始し[[ラ・プラタ連合]]もこれを支援した。この内乱はブラジルの宣戦布告により[[アルゼンチン・ブラジル戦争]]へと発展し、戦争はアルゼンチン有利に進んだが、ラ・プラタ川の両岸をアルゼンチンが保有することを恐れたイギリスの仲介により1828年、[[モンテビデオ条約]]が結ばれ、シスプラチナ州は[[ウルグアイ東方共和国]]としての独立が認められた。この敗戦はブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の失脚の原因ともなった
その一方で[[1826年]]ポルトガル本国でジョアン6世が死去すると王位継承者であるドン・ペドロがブラジル皇帝となっていたので王位継承問題が発生した。本国の保守反動派はドン・ペドロの継承権無効を宣言して弟の[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ドン・ミゲル]]の擁立を主張した。このためドン・ペドロは在ブラジルのままポルトガル王ペドロ4世として即位を宣言、ただちに長女[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア・ダ・グロリア]]に譲位した。そしてマリア・ダ・グロリアを叔父のドン・ミゲルと結婚させ、ミゲルをポルトガル摂政とする妥協が図られた。一時はこの妥協が成立したが、[[1828年]]ドン・ミゲルは約束を破棄して即位を宣言、このためドン・ペドロは[[1831年]]ブラジル皇帝位を長男の[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]に譲位し、長女マリア・ダ・グロリアのポルトガル王位を主張してポルトガルに向かった。
ブラジル新皇帝ペドロ2世は長期にわたって在位し、ブラジルによるウルグアイへの干渉から始まった[[三国同盟戦争]]を戦い抜き、[[パラグアイ]]を壊滅させるなど治世を安定させた。ペドロ2世はブラジルの[[奴隷制]]を廃止するなど[[自由主義]]的な[[君主]]であったが、[[糖尿病]]に犯されて次第に統治能力を失い、1888年の奴隷制廃止により大打撃を受けた保守支配層が[[1889年]]に企んだ[[軍部]]の[[クーデター]]によって廃位され([[ブラジル共和制革命]])、ブラジルは[[共和制]]となった。
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