「桓宗 (西夏)」の版間の差分

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桓宗の政策は先代の仁宗の政策を継承したものであり、国内的には民力の涵養を、対外的には[[南宋]]及び[[金 (王朝)|金]]との共存に努めた。
 
[[1205年]]、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]率いる[[モンゴル]]軍の侵攻が始まると、国内は不安定化、桓宗は[[金 (王朝)|金王朝]]と協力してモンゴルに対抗することを兼用したが、それに反対した生母・[[羅太后]]と甥の李安全(後の[[襄宗 (西夏)|襄宗]])によって1206年に帝位を廃され、まもなく配所にて病没したという([[暗殺]]説あり)。
 
{{先代次代|[[西夏]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第6代:1193年 - 1206年|[[仁宗 (西夏)|仁宗]]|[[襄宗 (西夏)|襄宗]]}}