「ホラズム」の版間の差分

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m WP:BOTREQ#チンギス・カン - チンギス・ハーン
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[[1077年]]、セルジューク朝のマムルーク出身の将軍アヌーシュテギーンがホラズム総督に任命されるが、やがてその家系がホラズムの世襲支配を強め、[[12世紀]]にはホラズム・シャーを自称してセルジューク朝から自立していった。この[[イスラム王朝]]としては4つめとなるホラズム・シャーの王統を、ふつう[[ホラズム・シャー朝]]と呼んでいる。
 
12世紀を通じてホラーサーンからイランへと勢力を拡大していったホラズム・シャー朝は、[[13世紀]]初頭の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]のとき[[ゴール朝]]を滅ぼし、[[西遼|カラキタイ]](西遼)を破って中央アジアからイランに至る最大版図を実現したが、[[1219年]]に始まる[[モンゴル帝国]]の[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の攻撃により瓦解した。ホラズムはマーワラーアンナフルからアム川を沿って侵入してきたモンゴル軍によって甚大な被害を受け、最後まで抵抗を続けて[[1222年]]春に陥落した首都ウルゲンチは徹底的に破壊された。
 
[[1231年]]には旧市の傍にウルゲンチが再建され、モンゴル帝国のもとで早々にホラズムの復興が始まった。第4代[[ハーン|大ハーン]]、[[モンケ]]の死後に起こったモンゴル帝国の騒乱で中央アジアの領土が西方の諸王家によって分割されると、チンギス・ハーンの長男[[ジョチ]]一門の[[ウルス]](所領)の領有に帰した。ホラズム地方は、以後[[ジョチ・ウルス]]と、イラン・ホラーサーンを支配する[[フレグ]]一門のウルス、[[イルハン朝]]との間で争奪されるが、[[バトゥ]]家のジョチ・ウルス歴代ハンと親族関係にある有力部族[[コンギラト]]が守るホラズムはジョチ・ウルスの陣営に保たれた。