「ルイ6世アンリ (コンデ公)」の版間の差分

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[[1787年]]の[[名士会]]では、父と共に出席し、あらゆる改革に反対した。[[1788年]]12月2日に[[ヴェルサイユ宮殿]]に参内し、アルトワ伯、父コンデ公、息子の[[アンギャン公ルイ・アントワーヌ]]、[[ルイ・フランソワ2世 (コンティ公)|コンティ公ルイ・フランソワ2世]]とともに、[[全国三部会]]の頭数による投票に反対する覚書を[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]に提出した。
 
[[1789年]]に[[フランス革命]]が勃発すると、コンデ公、コンティ公と共にドイツの[[コブレンツ]]に[[亡命]]した。[[1814年]]にフランスへ帰国し、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]を補佐するが、[[1830年]]にサンルーの居城で、イスパニア錠で首を吊って自殺した。ルイ6世アンリの代でブルボン=コンデ家は断絶した。
 
{{先代次代|[[コンデ公]]|1818 - 1830|[[ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)|ルイ5世ジョゼフ]]|―}}