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竹光 (会話 | 投稿記録)
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== エピソード ==
 
*1961年シーズン終了後、当時17歳だった土井は球団の作成した整理対象選手リストに名前が入っており、解雇される予定であった。しかし、近鉄の監督に就任した別当薫は土井のがっしりとした体格に長距離打者としての素養を見出し、土井が整理対象となっている事を知ると慌ててこれを取り消すよう球団に頼んだ。そして別当は、土井を熱心に指導し、18歳の4番打者として売り出し、結果が伴わなくても辛抱強く試合に出し続けた(年度別成績の1962年を参照。この打率、本塁打数で規定打席に到達している)。その甲斐あって、数年後、土井は球界を代表する打者に成長するに至った。このため、土井は別当に深く感謝している(別途[[別当薫]]の項目も参照のこと)。
*典型的な[[プルヒッター]]で、通算465本の[[本塁打]]のうち、ライト方向へ飛んだのはたった3本だったという。一方、これほどのプルヒッターでありながらミートの上手いバッターでもあった。本人によればバットを折った記憶がほとんどなく、引っ張り一辺倒のバッティングでありながらバットを折ることがほとんどなかったことを誇りに感じているという。また、三振数の打数に対する割合が.089と1割を切っている。この「三振率1割未満」は400本塁打以上を打ったスラッガーの中では[[張本勲]]、[[長嶋茂雄]]と土井だけの記録であり、長距離打者として異例とも言える三振の少なさも特筆すべき特徴である。
*コーチを解任されたのちに清原の技術が停滞し、1990年代に[[死球]]禍などに苦しんだことについては、「清原に1軍で勝つための技術だけしか身に付けさせられなかった」としている。
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*チームが福岡から所沢に移転する際に、[[東尾修]]・[[伊原春樹]]・[[竹之内雅史]]ら主力選手のほとんどが反対していたが、「俺はどこででもやる」と発言。反対していた選手も徐々に納得し出した。
 
=== 18歳の四番打者誕生の経緯 ===
土井がプロでの実績がないのに18歳にして四番打者となったのは、当時の監督、別当薫の考えに基づいてのことであり、別当の監督就任は土井のプロ野球生活最初にして最大のターニングポイントと言える。
 
別当が近鉄の監督に就任した当時、近鉄は4年連続最下位であり、前年にはシーズン103敗のプロ野球新記録を打ち立てるほど弱かった。別当はチーム状況を見て、近鉄が強くなるためには、チームの柱になる選手の存在、とりわけ長打を打てる選手が必要だと強く感じた(長らく近鉄は本塁打、得点ともにリーグ最下位を争うのが常であった)。
 
別当は、監督就任直後、1961年の秋季キャンプで長距離砲の候補を探す中、大振りが多いががっしりとした体格の若い選手を発見。確認したところ、整理対象(解雇する候補)の選手であると判明し、慌てて整理リストから外すように指示した。この選手が当時17歳、プロ入り1年目であった土井正博である。土井は別当に熱心な指導を受け、そして翌年、別当は前年オフに解雇寸前であった土井を18歳の四番打者として売り出した。
 
土井が結果を出していないのに試合に出続ける状況から、別当監督への選手起用法批判は多々あり、土井の四番起用は弱小球団の単なる話題作りだと非難を浴びた。しかし別当が土井を試合で使い続けたのは土井が長距離砲としてチームの中心になれる器であると感じていたためで、チームが強くなるためには土井を育てることが必要不可欠だと考えたからであった。
 
土井自身は、結果が出ていないのに出場し続けることに相当の重圧を感じており、ある時、出場メンバーから外すように別当に願い出た。しかし、別当は「近鉄が強くなるためにはお前の力が必要になる。だから、数年先のためにお前は外さない」と拒否し、土井に奮起を促した。土井はその期待に見事応え、別当が近鉄監督3年目となった1964年には、3割30本100打点に惜しくも届かないものの、リーグ最多安打を記録するなど成長。その後、近鉄の中心打者として長らく活躍した。
 
これらの経緯から、土井は別当を師匠と仰ぎ、深く感謝している。
 
== 年度別打撃成績 ==