「カルナータカ州」の版間の差分

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[[11世紀]]になり、[[ホイサラ朝]]がこの地域の実権を握り、ホイサラ文学が栄える。カンナダ拍子やホイサラ様式建築が栄えた。ホイサラ朝の拡大は、現在の[[アーンドラ・プラデーシュ州]]や[[タミル・ナードゥ州]]まで及んだ。[[14世紀]]初頭には、ハリハラとブッカの兄弟が[[ヴィジャヤナガル朝]]をカルナータカ州南部、トゥンガバドラー川南岸に建国した。この王朝は進出するイスラム王朝に対する砦として、この地域を2世紀にわたり支配した。
 
[[1565年]]、カルナータカと他の南インド地域は、ヴィジャヤナガル朝が没落し[[タリコタ]]の戦いでイスラム王朝が興隆することで、大きな社会地理的な変化が起こった。<ref name="bin">Kamath (2001), pp. 190-191</ref>[[ビダール]]の[[バフマニー朝]]の後興った[[ビージャプル王国|ビジャープル朝]]がデカン高原を支配した。その後ビジャープル朝は[[ムガル帝国]]によって[[17世紀]]末に滅ぼされた。<ref name="conf">Kamath (2001), p201</ref><ref name="erst">Kamath (2001), p202</ref>[[バフマニー朝]]と[[ビージャプル王国|ビジャープル朝]]はともに、[[ウルドゥー語]]と[[ペルシャ語]]文学や、インド・[[サラセン洋式]]建築を推奨し、その中でも[[ゴール・グンバス]]廟はその様式の極みとなっている。<ref name="gol">Kamath (2001), p207</ref>
 
[[Image:Tipu_Sultan_BL.jpg|left|thumb|[[マイソール戦争]]で[[イギリス]]の侵略に抵抗した[[ティプー・スルタン]]。[[イギリス領インド帝国|植民地]]にとなる前のインドで最も聡明で強い支配者の一人。]]