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'''陸 羽'''(りく う、[[733年]] - [[804年]])は、[[唐]]の復州竟陵郡(現在の[[湖北省]][[天門市]])出身の文筆家。[[茶]]の知識をまとめた『[[茶経]]』3巻などを著述した。またの名を疾、[[字]]は鴻漸、季疵、号は桑苧翁と称した。(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。
 
==経歴==
捨て子として3歳くらいのときに浜で競陵龍盖寺の智積禅師に拾われ陸羽と名づけられた(他からは竟陵子と呼ばれた)。[[至徳 (唐)|至徳]]元年([[756年]])、[[安史の乱]]を避け、江南に行き、[[上元 (唐粛宗)|上元]]元年([[760年]])頃、現在の[[浙江省]]に住んだという。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ10年後に[[建中 (唐)|建中]]元年([[780年]])に補足をつけた『茶経』3巻を著す。
復州竟陵郡(現在の[[湖北省]][[天門市]])出身。捨て子として3歳くらいのときに浜で競陵龍盖寺の智積禅師に拾われた。姓名は、長じてから、筮竹を引いて、その卦の文字から選んで決めた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという。
 
幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。
 
逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。[[天宝]]年間に、竟陵太守・李斉物の目に止まり、書を教えられ、学問を学んだ。その後、竟陵司馬の崔国輔と交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。
 
捨て子として3歳くらいのときに浜で競陵龍盖寺の智積禅師に拾われ陸羽と名づけられた(他からは竟陵子と呼ばれた)。[[至徳 (唐)|至徳]]元年([[756年]])、[[安史の乱]]を避け、江南に行き、[[上元 (唐粛宗)|上元]]元年([[760年]])頃、呉興(現在の[[浙江省]]住んだ庵をつくって、隠居し、桑苧翁と号し、著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ10年後に[[建中 (唐)|建中]]元年([[780年]])に補足をつけた『茶経』3巻を著す。
 
== 伝記資料 ==
* 『[[新唐書]]』巻百九十六 列伝第百二十一隠逸「陸羽伝」
 
== 参考文献 ==
* [[陳舜臣]]『茶の話 茶事遍路』
 
== 外部リンク ==