「アイポッパー」の版間の差分

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体質の弱さからデビューは遅れ、[[2003年]][[6月]]の函館・3歳未勝利で[[藤田伸二]]でデビューした。初戦は出遅れも響いて2着。2戦目で初勝利を挙げる。
続く3歳上500万下2着の後は芝に転向。4戦目の阪神・3歳上500万下2着以降は芝のレースを使い続けている。
同年[[10月]]、5戦目の京都・3歳上500万下で2勝目を挙げ、八瀬特別2着後の中京・天竜川特別で、出遅れるも4馬身差の圧勝劇で3勝目を挙げる。
 
 
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[[2005年]]、[[万葉ステークス]]で[[ファストタテヤマ]]やチャクラを退けて2連勝を果たし、長距離戦線における常連的存在として定着。2度目の重賞挑戦となった[[阪神大賞典]]では[[マイソールサウンド]]の2着に終わったが、[[リンカーン (競走馬)|リンカーン]]に先着した。そして[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]で初めてG1に挑戦し、有力馬がこぞって崩れた中を渋太く粘り抜いて3着に入った。その後、

秋には日本馬として初めて[[オーストラリア]]に遠征を行った。遠征初戦の[[10月]]にコーフィールドカップ]]2着に入ったもはそ、続く[[メルボシンガポー航空イターナショナルカップ]]では12着優勝馬マミファイを直線競り落惨敗すも、ゴール寸前でレイリングスに差切られ2着に終わる
この惜敗で現地の評価の高まったアイポッパーであったが、続く[[メルボルンカップ]]では、[[マカイビーディーヴァ]]のメルボルンカップ三連覇の偉業の前に12着と惨敗してしまう。
帰国後は予備登録のあった香港ヴァーズを自重して全休。来シーズンに備えることになる。
 
 
[[2006年]]、阪神大賞典、天皇賞(春)と長距離路線を歩んでいくが、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]の壁にはばまれ好成績を残すことはできず、それぞれ6着、4着に終わる。続く[[目黒記念]]ではトップハンデを背負いながら[[ポップロック (競走馬)|ポップロック]]の僅差2着に食い込むが、[[宝塚記念]]では苦手の道悪もあってシンガリ負けを喫する。
 
再びしばしの休養のあと、[[京都大賞典]]から始動するが6着に終わる。しかし、[[アルゼンチン共和国杯]]で2着に入り復調気配を見せると、[[ステイヤーズステークス]]では[[オリビエ・ペリエ]]を背に1.7倍の人気にこたえて勝利。重賞挑戦12戦目で漸く念願の重賞初制覇を果たす。
その後[[有馬記念]]に挑戦が表明されるが裂蹄のため回避。翌年の天皇賞を目標に調整されることになる。
 
 
[[2007年]]、阪神大賞典では先行策からゴール前で一番人気[[ドリームパスポート]]を抑えて優勝し重賞2連勝を果たす。続く天皇賞(春)では二冠馬[[メイショウサムソン]]や前年のメルボルンカップ勝ち馬[[デルタブルース]]らを抑え1番人気に押された。しかし、スタートでの出負けもあって[[メイショウサムソン]]の4着に終わってしまう。レース後に左第1指骨剥離骨折が判明休養を余儀なくされ、さらる。11月栗東に帰厩したものの。[[馬インフルエンザのあお]]に感染する不運も重なを食う、結局2007年後半は全休することにどして実戦から遠ざかってしまう
 
 
[[2008年]]、骨折を乗り越えて[[京都記念]]で復帰するが最下位16着に終わる。しかし続く阪神大賞典では復調を見せて一変し、[[アドマイヤジュピタ]]の2着に入る。四度目の挑戦となった、天皇賞(春)では11着と惨敗したものの、続く目黒記念はトップハンデを背負いながら[[ホクトスルタン]]の5着に健闘した。
夏場はノーザンファームでリフレッシュ放牧、9月16日に栗東に帰厩した。迎えた秋初戦、京都大賞典では内から渋太く伸びて3着に入り、健在ぶりをアピールした。
 
== 特徴 ==
同じサッカーボーイ産駒である[[ナリタトップロード]]や[[ヒシミラクル]]同様、長距離戦で力を発揮する典型的なステイヤーであり、芝のレースを使い始めて以降は04年古都Sと08年京都記念を除いて芝2400m以上のレースを使われている。
長距離戦線の最高峰である天皇賞(春)に04年から08年まで四年連続で参戦しているように、04年以降は長距離重賞の常連として活躍している。
 
07年阪神大賞典後に騎乗した武豊が「非常に乗りやすい馬」と述べたように、折り合いの不安がなく、騎手の意のままに動ける賢さを持っているが、一方で重賞で度々惜敗しているように詰めの甘さも併せ持つ。
[[2007年]]、阪神大賞典では一番人気[[ドリームパスポート]]を抑えて重賞2連勝。続く天皇賞(春)では1番人気に押された。しかし、スタートでの出負けもあって[[メイショウサムソン]]の4着に終わってしまう。レース後に左第1指骨剥離骨折が判明、休養を余儀なくされ、さらに馬インフルエンザのあおりを食うなどして実戦から遠ざかってしまう。
(最速上がり3Fを29戦中12回(記録のない豪州遠征除く)で記録しているようにある程度以上の決め手は持っている。)
 
大雨の中行われた07年宝塚記念や、散水が行われた06年メルボルンカップで惨敗してしまったように、道悪を極端に苦手にしている。
また、父サッカーボーイ同様蹄に弱さを持っており、特に空気が乾燥する冬場は例年裂蹄に悩まされている。
 
[[2008年]]、骨折を乗り越えて[[京都記念]]で復帰するが最下位16着に終わる。しかし続く阪神大賞典では復調を見せて[[アドマイヤジュピタ]]の2着に入る。四度目の挑戦となった、天皇賞(春)では11着と惨敗したものの、続く目黒記念はトップハンデを背負いながら[[ホクトスルタン]]の5着に健闘した。
夏場はノーザンファームでリフレッシュ放牧、9月16日に栗東に帰厩した。迎えた秋初戦、京都大賞典では内から渋太く伸びて3着に入った。
 
== 血統表 ==