「ロバート・トリヴァース」の版間の差分

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== 経歴 ==
父ハワード・トリヴァースと母ミルドレッドの間に7人兄姉の2番目として生まれる。両親は[[リトアニア]]移民の[[ユダヤ人]]である。両親はハーバード大学で出会った。ハワードは1930年代にドイツに留学し[[ドイツ哲学]]を学んだ。[[第二次世界大戦]]が近づくとアメリカに帰国し、国務省で戦争に協力したために戦後に外交官のポストを得た。トリヴァは幼少時代を[[ベルリン]]、[[コペンハーゲン]]、[[ワシントンDC]]で過ごした。彼はいじめられっ子であり、学校の図書館で[[ボクシング]]の本を読みボクシングジムに通った。[[フィリップス・アカデミー]]に入学すると14歳の時に三ヶ月で[[微積分]]を独学した。ハーバード大学に入学する前に数学の先進クラスを二つ履修していた。
 
[[1961年]]にフィリップス・アカデミーを卒業すると[[ハーバード大学]]に進み[[数学]]を専攻した。しかし一年目に数学への興味失った。世界各地での生活で社会の不公正や不正義を目の当たりにしていたために弱者を助けようと考え、[[法律家]]になる事を決意した。そのために米国の歴史を学んだが、自国賛美であった歴史の講義は苦痛だった。まもなく[[統合失調症]]を経験ししばらく入院した。彼は第一世代の[[向精神薬]]の投与を受けた。この心神耗弱はイェール法学校への進学を阻んだ。回復すると[[心理学]]や[[芸術]]の講義を受けたが、実証主義的でなかったそれらの現状に失望した。1965年に[[歴史学]]の学位を取得した。
 
ハーバードの大学院に通いながら中学生向けに動物の社会を論じた教科書を執筆する仕事を見つけ、[[エルンスト・マイヤー]]の教え子の動物学者ウィリアム・ドルリーに出会った。この時初めて[[生物学]]に触れた。トリヴァースは教科書執筆中の[[1966年]]に[[群選択]]と個体選択論争に直面し、[[ヴェロ・コプナー・ウィン=エドワーズ|ウィン=エドワーズ]]と[[デイビッド・ラック]]を読み比べて個体選択を正しいと考えた。この経験が彼を本格的に進化生物学へ引き入れることになり、一度も正規の生物学の講義を受けたことがないまま、専攻を生物学へ変更した。教科書は進化を事実と記述していたために出版されることはなかった。南部選出の議員の妨害にあったと後に述べている
 
大学院ではドルリーは指導教官になれなかったために、爬虫類学者アーネスト・ウィリアムズのもとで学んだ。また[[霊長類]]学者・進化生物学者アーヴェン・デヴォア(イーブン・ドゥボア)や[[エルンスト・マイヤー]]の教えも受けた。ドルリーとデヴォアはトリヴァースが心神衰弱の困難な時代に彼を支えた。[[1967年]]にマイヤーから[[ウィリアム・ドナルド・ハミルトン|W.D.ハミルトン]]の1964年論文を紹介された。[[血縁選択説]]を理解したトリヴァースはのちにデヴォアと共に動物行動の生物学的基盤に関する講義を行い、血縁選択説をアメリカに導入した先駆的な一人となった。1972年に生物学の博士を取得した。[[1973年]]から[[1978年]]までハーバード大学で助教授。彼とデュボヴォアの講義は行動の生物学的基盤に反対するグループからの抗議を受けた。トリヴァースは[[エドワード・オズボーン・ウィルソン|E.O.ウィルソン]]の『社会生物学』で血縁選択と包括適応度に関する数学的なアドバイスも行っている。
 
1977年から再び統合失調症の症状の悪化に苦しめられた。ハーバード大学での終身在職権取得を却下されたこともあり、同僚の[[ロビン・ダンバー]][[ライオネル・タイガー]]らの手配によって1978年に[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]]へと移った。そこで彼は[[ブラックパンサー党]]のリーダーであった[[ヒューイ・P・ニュートン]]と出会った。トリヴァーズと獄中のニュートンは1978年にサンタクルーズ校で学位を取るための意識の歴史についての講座を受けた。トリヴァースとニュートンは親友となり、ニュートンは彼の娘の一人の名付け親となった。トリヴァースは[[1979年]]にブラックパンサー党に入団した。彼らは[[1982年]]の[[エア・フロリダ90便墜落事故]]における乗務員の自己欺瞞についての分析を共同で執筆した。
 
[[1994年]]からは[[ラトガース大学]]に人類学および生物学教授として在籍している。ラトガース大学ではジャマイカの子どもたちの体の対称性と魅力の関係を調べている。2005年からハーバード大学の人類学客員教授も勤めている。彼は[[リチャード・ドーキンス]]の『利己的な遺伝子』の初版の序文を書いた。しかし第二版で序文が完全に削除されたために二人は疎遠になった。第三版では再びトリヴァーズの序文が収録されている。[[2007年]]には「社会進化と対立、協力の重要な分析」に対して[[クラフォード賞]](生物科学部門)が与えられた。