「ミハイル・ロリス=メリコフ」の版間の差分

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[[1877年]]、[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]で騎兵部隊を率いて[[トルコ]]の戦線に転戦した。[[アルダハン]][[w:Ardahan]]要塞奪取後、ゼービンZebinで[[ムフタール・パシャ]]に撃退される。その後アラズィーで敵軍を撃破し、[[カルス (都市)|カルス]]を占領し、[[エルズルム]][[w:Erzerum]]を包囲する。露土戦争の勲功により[[伯爵]]の位と、[[聖ゲオルギー勲章]]を受ける。
 
[[1878年]]ロリス=メリコフは、下[[ヴォルガ]]地域の暴動を抑えるため臨時[[総督]]に任命され赴任した。総督としてロリス=メリコフは、[[ニヒリスト]]や[[アナーキスト]]を鎮圧することに成功した。[[ナロードニキ]]が先鋭化し、[[ツァーリズム]]に対抗して[[テロリズム]]に走る中、ロリス=メリコフの成功は中央でも注目され[[1880年]]2月皇帝アレクサンドル2世に対する暗殺未遂事件をきっかけに設置された最高指揮委員会長官chief of the Supreme Executive Commissionに就任することに繋がった。カフカス同様、サンクトペテルブルクでも[[特別法]][[超法規的処置]]よりむしろ通常の法律の範囲内で対処するように明確な選択を示し、相次ぐ用心に対するテロにも動揺を見せなかった。よりよい政策の実行が国民の不満の原因を除去し、結果的に帝政を脅かすテロの根源を絶てるとの見解からアレクサンドル2世に対してより抜本的な行政改革と財政改革をめざす二つの起草委員会設立を進言した。アレクサンドル2世も赤色テロの横行に従来の警察力による抑圧策の限界を見て取っていたためロリス=メリコフの提案に注目した。1880年8月最高指揮委員会が解散され、ロリス=メリコフは[[内務大臣]]に任命された。ロリス=メリコフは、政治状況の安定化のため、反動的な見解を持つ閣僚の何人かを退任させた他、[[秘密警察|政治秘密警察]]として悪名高い、[[皇帝官房第三部]]を廃止した。さらにロリス=メリコフは、立憲制導入の第一歩として、[[ゼムストヴォ]]の県会と、大都市自治会から選ばれた代表それぞれ二名を一般委員会に参加させることと、国家評議会にゼムストヴォなど社会諸機関の代表委員15名参加させることを提案した。当初、この改革案に対してアレクサンドル2世は消極的であったが、結局承認を与えた。
 
[[1881年]][[3月1日]]アレクサンドル2世はロリス=メリコフの改革案に承認を与えた当日、「[[人民の意志]]」の[[ソフィア・ペロフスカヤ]]の指揮するグリネビツキーの爆弾テロによって暗殺された。新帝[[アレクサンドル3世]]によりロリス=メリコフの改革案は白紙還元となり、同年4月[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]が起草した勅令は、改めて皇帝専制の不動性を宣言したものであった。これを受けてロリス=メリコフと陸相[[ドミトリー・ミリューチン]]は直ちに辞職し改革は頓挫した。1888年12月22日[[ニース]]で死去した。