「手こね寿司」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Opponent (会話 | 投稿記録)
N yotarou (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目:
 
== 志摩地方の手こね寿司 ==
[[カツオ|鰹]]や[[マグロ|鮪]]などの赤身の魚を[[醤油]]を中心としたタレに漬け込んだ後、寿司飯へと合わせて食べる。好みにより、大葉や生姜、海苔などをちらす。<!-- [[鯵]]などを塩・酢へ漬けて作るのは大王町波切だけで、『ばら寿司』と呼ばれたようです。 -->伝承観光案内では漁師が漁の合間に食べた食事がもとであり、考案したのは志摩町和具の漁師といわている。沖での忙しい鰹漁のさなかの食事として、獲れた鰹を千切りにして醤油を付け、炊きたてのご飯に手で混ぜて食べたのが始まりとされる<ref>日本の食生活全集第24巻 聞き書三重の食事 (社)』(1987年4月農山漁村文化協会発行、ISBN 4-540-87001-7)</ref>。船上から陸で食べる料理となったときに、現在の形へと変容したといわれている。[[ふるさとおにぎり百選]]・[[農山漁村の郷土料理百選]]に選定されている
しかし志摩地方では[[1938年]]([[昭和]]16年)4月の米の[[配給 (物資)|配給]]以前は米は[[ハレとケ|ハレ]]の食事に限られていたこと、[[明治]]中期以前はカツオ漁は手漕ぎ船による沿岸・近海に限られていたので船上で食事をとる必要がなく、鮮度保持のために冷蔵・冷凍が用いられるようになるまではただちに帰航し水揚げしていたなどの理由から、由来が忘れられたあとの聞取り調査の結果によるもので、本来は大漁のときの祝いとして船主が船員にふるまったハレの食事<ref>『鰹船』(上村角兵衛著、1971年2月志摩郷土会発行)7-8ページ</ref>がカツオ漁の形態の変化とともに船上での食事となり、陸上でもハレの食事として残ったのであろう。
 
昭和20年代までは寿司飯の上に魚の切り身を乗せるだけであったが、昭和30年代以降に[[海苔]]なども上にかけるようになった。昭和40年代に地方色のある観光客向けの郷土料理として着目され[[伊勢市]]にも広まり、[[伊勢うどん]]と並ぶ伊勢志摩を代表する郷土料理として知られるようになった。[[ふるさとおにぎり百選]]・[[農山漁村の郷土料理百選]]に選定されている。
 
<!-- 解決したのでコメントアウト:しかし、魚の醤油漬けは、元来保存目的で発達したものであり、漁が忙しいさなかに獲れた鰹をわざわざ醤油漬けにするのは不自然であるなどの理由により、漁師の考案によるものとする伝承は再検討すべきではないかとの意見もある。-->
 
== 参考文献 ==
18行目:
* [http://www.yomiuri.co.jp/tabi/gourmet/fudoki/20060523tb02.htm 小泉武夫の食味学…てこね寿司]
* 「[http://iseshima.keizai.biz/headline/159/ 『郷土寿司』ブームで志摩地方の『手こね寿司』に脚光]」(伊勢志摩経済新聞、2007年4月5日)
* [http://isobuekai.hp.infoseek.co.jp/10tekone.html 「きらりレシピ てこね寿司」](志摩いそぶえ会)
 
[[Category:寿司|てこねすし]]