「三日平氏の乱 (平安時代)」の版間の差分

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8月3日、事態を重く見た[[源頼朝|頼朝]]は、蜂起した平氏勢力の中の最有力人物である平信兼の捜索を[[源義経|義経]]に命じる。
 
10日、[[出羽国|出羽]][[国司|守]]を解官された信兼の3人の子息、[[平兼衛|兼衛]]・[[平信衛|信衛]]・[[平兼時|兼時]]が京の義経邸に呼び出され、斬殺、自害へ追い込まれている。義経はその2日後に信兼討伐に出撃した(『[[山槐記]]』8月10日条記』)。その後の合戦の経過について貴族の日記による記録はないが、『[[源平盛衰記]]』によると、伊勢国滝野の城に立てこもる100騎ほどの信兼軍が激戦の末、討ち取られたという。
 
この平信兼追討の間の8月6日、義経は[[後白河天皇|後白河法皇]]より[[左衛門少尉]]、[[検非違使]]に任じられている。