「島津忠雅」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
10行目:
{{武士/父母|父:[[島津惟久]]<br />母:[[島津久供]]の娘([[島津綱貴]]の養女)}}
{{武士/妻|正室:[[鳥居忠瞭]]の娘、側室:萩原氏}}
{{武士/子|長男:[[島津久智]]、二(長)、[[島津久福]]、三(次)、<br />[[島津久柄]](三男)<br>四男:[[島津久謐]]、五(六)、<br />[[島津久武 (壱岐)|島津久武]]、六(七)、[[島津久中]](八男)<br />娘(渋谷久命室)}}
{{武士/終了}}
'''島津 忠雅'''(しまづ ただまさ、[[元禄]]15年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1703年]][[1月17日]]) - [[天明]]4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1784年]][[7月2日]]))は、[[日向国|日向]][[佐土原藩]]の第7代藩主。
 
[[元禄]]15年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1703年]][[1月17日]])、第6代藩主・[[島津惟久|惟久]]の三男として生まれる。兄がい三男であったが2人のが庶出だったために世子となり、[[享保]]8年[[5月29日]]([[1723年]][[7月1日]])、父の隠居により家督を継いだ。[[宝暦]]3年[[12月11日_(旧暦)|12月11日]]([[1754年]][[1月4日]])、三男の[[島津久柄|久柄]]に家督を譲って隠居し、[[天明]]4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1784年]][[7月2日]])に佐土原で死去した。享年83。墓所:[[宮崎県]][[宮崎市]]佐土原町の高月院。
 
{{先代次代|[[薩摩藩#支藩(佐土原藩)|島津氏(佐土原藩7代)藩主]]|1723 - 1753|[[島津惟久]]|[[島津久柄]]}}