「伊東祐兵」の版間の差分

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{{武士/主君|[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]}}
{{武士/氏族|[[伊東氏]]}}
{{武士/父母|父:[[伊東義祐]]、母:河崎氏、養父:''[[伊東義益]]''}}
{{武士/兄弟|[[伊東義益|義益]]、'''伊東祐兵'''}}
{{武士/妻|正室:'''伊東義益の娘'''}}
{{武士/子|娘(伊東祐平([[伊東マンショ]]弟))室、'''<br />[[伊東祐慶|祐慶]]'''<br />(長男)、於仙([[成瀬正武]]室)、<br />娘([[滝川法直]]室)、[[伊東祐寿|祐寿]](次男)}}
{{武士/終了}}
'''伊東 祐兵'''(いとう すけたか(すけたけ))は[[伊東氏]]十一代当主。[[日向国]][[飫肥藩]]初代藩主。「[[鹿児島県]]史料 旧記雑緑拾遺 [[伊地知季安]]著作集」の『伊東氏系図』では「伊東氏中興の祖」と書いている。
== 経歴 ==
伊東義祐の三男。永禄11年([[1568年]])から[[飫肥城]]に入り、[[島津氏]]と戦う。しかし[[天正]]5年([[1577年]])に福永丹波守、[[米良矩重|米良美濃守]]らの謀反に呼応した島津の侵攻によって、父・[[伊東義祐]]が[[佐土原町|佐土原]]を追われると、祐兵は父とともに同行。米良山中から[[高千穂町|高千穂]]へ抜け[[豊後国|豊後]]に落ち延びて親類の[[大友義鎮|大友宗麟]]を頼った。
 
[[大友氏]]は義祐や孫・[[伊東義賢|義賢]]の為に日向国に攻め入り島津軍と衝突。[[耳川の戦い]]が起き、大友氏は島津氏に再起不能なまでに叩き潰された。耳川の大敗によって豊後に居づらくなった祐兵は、嫡系の義賢と[[伊東祐勝|祐勝]]を大友家に残して、父・義祐と[[川崎祐長|川崎駿河守祐長]]・権助父子らと共に密かに豊後を脱出、[[伊予国|伊予]]に落ち延び[[河野氏]]を頼った。しかし伊予国でも満足な暮らしは出来ず、川崎駿河守は酒造りを営んで生活していたという。