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'''伊東 祐実'''(いとう すけざね、[[1644年]][[3月6日]]([[寛永]]21年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[1723年]][[10月16日]]([[享保]]8年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]))は、[[日向国|日向]][[飫肥藩]]の第5代藩主。父は

第3代藩主・[[伊東祐久]](祐実は四男。母は[[尾張藩]]重臣・[[滝川法直]]の娘。正室は[[秋田盛季]]の娘、継室は[[鍋島光茂]]の娘。官位は従五位下、[[出雲国|出雲]]守、[[大和国|大和]]守。
 
寛永21年(1644年)1月28日生まれ。兄で第4代藩主の[[伊東祐由]]に嗣子が無かったため、その養嗣子となる。[[寛文]]元年([[1661年]])、兄の死去によって後を継いだ。藩政においては窮乏の色が見え始めた藩財政を再建するため、積極的な内治政策に取り組もうとしたが、寛文2年([[1662年]])に大[[地震]]・大[[津波]]が領内を襲って大被害を受け、さらに[[薩摩藩]]と領土の境界をめぐって争うなど、治世は多難を極めた。それでも[[飫肥城]]の改築、油津運河の開削、郷士制度の確立、[[甘藷]]の食糧自給化などに尽力している。
 
嗣子が無かったため、分家で[[交代寄合]]の[[伊東祐春]]の長男[[伊東祐崇]](つまり祐実の甥・駿河守)を最初は養嗣子としたが、これは病弱だったために取りやめ廃嫡し、伊東左門祐信の長男・[[伊東祐永]]に祐崇の娘を嫁がせて養嗣子とした。[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])に祐永に家督を譲って隠居し、享保8年(1723年)9月18日、80歳で死去した。
 
{{先代次代|[[飫肥藩|伊東氏(飫肥藩5代)藩主]]|1661年 - 1714年|[[伊東祐由]]|[[伊東祐永]]}}