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'''伊東 祐永'''(いとう すけなが、[[1689年]]([[元禄]]2年)? - [[1739年]][[2月21日]]([[元文]]4年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]))は、[[日向国|日向]][[飫肥藩]]の第6代藩主。父は伊東左門祐信。母は稲村氏。正室は[[伊東祐実]]の養女([[伊東祐崇]]とその継室[[松平義昌]]の娘との娘)。側室は井上氏ほか。子に[[伊東祐隆|祐隆]]、[[伊東祐之|祐之]]、娘([[九鬼隆邑]]室)。官位は従五位下、[[豊後国|豊後]]守、修理亮
 
伊東祐信(左門)の子。母は稲村氏。正室は[[伊東祐実]]の養女([[伊東祐崇]]の娘、母は継室[[松平義昌]]の娘)。側室は井上氏ほか。子に[[伊東祐隆]](三男)、伊東祐房(五男)、伊東祐順(七男)、[[伊東祐之]](九男)、娘([[九鬼隆邑]]正室)、娘(伊東祐恵室)。官位は従五位下、[[豊後国|豊後]]守、修理亮。
元禄2年(1689年)生まれとも言われているが、元禄4年([[1691年]])6月11日生まれという説もある。第5代藩主・祐実に嗣子が無かったため、その養嗣子となる。[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])4月29日、養父の隠居により家督を継いだ。しかし藩財政がこの頃になると逼迫し、祐永は[[享保]]3年([[1718年]])に厳しい倹約令を出すなどの藩政改革を行なったが、城下町で火事が起こって212戸を全焼するなどの大被害を受け、ますます財政悪化が進んだ。元文4年(1739年)正月14日、51歳で死去し、後を子の[[伊東祐之]]が継いだ。法号は玄証院霊鑑自覚。
 
元禄2年(1689年)生まれと言われているが、元禄4年([[1691年]])6月11日生まれという説もある。第5代藩主・伊東祐実に嗣の嫡が無かた伊東祐崇が廃嫡されたため、その代わってとなり、祐崇の娘を正室として飫肥藩世嗣となる。[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])4月29日、養父・祐実の隠居により家督を継いだ。しかし藩財政がこの頃になると逼迫し、祐永は[[享保]]3年([[1718年]])に厳しい倹約令を出すなどの藩政改革を行なったが、城下町で火事が起こって212戸を全焼するなどの大被害を受け、ますます財政悪化が進んだ。元文4年(1739年)正月14日、51歳で死去し、後を子の[[伊東九男・祐之]]が継いだ。法号は玄証院霊鑑自覚。
 
{{先代次代|[[飫肥藩|伊東氏(飫肥藩6代)藩主]]|1714年 - 1739年|[[伊東祐実]]|[[伊東祐之]]}}