「鳳来寺」の版間の差分

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== 起源と歴史 ==
*寺伝では[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])に利修が開山したと伝える。椙の1本を伐採し、本尊・薬師如来、日光、月光、12神将、[[四天王]]を彫刻したとも伝わる。[[文武天皇]]の病気平癒を再三、依頼されると拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという。そこで17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立された。
*[[鎌倉時代]]には[[源頼朝]]によって再興された。当時、寺内に在った多くの僧坊の1つ、医王院において、[[平治の乱]]で落ち延びてきた頼朝が匿われたのが一因という。ただし、3年も匿われたという点で疑問も残る
*[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、近郊の[[菅沼氏]]から寺領の寄進を受けた。だが、[[豊臣秀吉]]の治世では300石のみを許されただけで、他は悉く没収。
*[[江戸時代]]に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領される。さらに家光の治世で大いに栄える。[[徳川家康]]の生母・[[於大の方]]が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したためである。それにより、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る'''[[東照宮]]'''が新たに造営され、[[慶安]]4年([[1651年]])の完成をみたのである(東照宮などに限る)。その上最終的には、東照宮の運営領を含む1350石が新たに寺領となった。
 
:なお、[[徳川家綱|家綱]]将軍の治世になっても諸僧坊の増築は続いており、[[延宝]]年間([[1673年]]~[[1681年|81年]])に存在した僧坊は以下の通り。
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:: 医王院、藤本院、法華院、円琳院、日輪院、一乗院、月蔵院、尊教坊、中谷坊、善智坊(のちの長順坊)
 
:[[東海道]][[御油宿]]から延びる街道は'''鳳来寺道'''と呼ばれるなど、[[秋葉山本宮秋葉神社]]と並んで、この地方では数多くの参詣者を集めた。
*[[明治]]に入るまで、東照宮の祭事を[[社僧]]や[[別当]]が行っていたため、新たに[[祠官]]が派遣された。ここに寺院と東照宮が分離される。これは、寺社領没収の煽りを受けていた当山には大打撃で、東照宮が命脈を保つ一方で、寺院・鳳来寺の衰勢は著しかった。そこで、同39年([[1906年]])11月、並存していた天台・真言の両宗派を真言宗に統一して[[高野山]]に属し、寺院規模の縮小で存続を図った。
 
*[[大正]]3年に[[本堂]]が焼失したが、[[昭和]]49年に再建された。明治初期まで存在した諸僧坊は、松高院と医王院のわずか2院の堂宇のみが現存する(松高院には山門あり)。
*[[明治]]に入るまで、東照宮の祭事を[[社僧]]や[[別当]]が行っていたため、新たに[[祠官]]が派遣された。ここに寺院と東照宮が分離される。これは、寺社領没収の煽りを受けていた当山には大打撃で、東照宮が命脈を保つ一方で、寺院・鳳来寺の衰勢は著しかった。そこで、同39年([[1906年]])11月、並存していた天台・真言の両宗派を真言宗に統一して[[高野山]]に属し、寺院規模の縮小で存続を図った。
 
 
:困窮の窮みにあった同38年([[1905年]])には、[[高野山]][[金剛峯寺]]の特命を受けた京都[[法輪寺 (京都市上京区)|法輪寺]]から派遣された[[服部賢成]]住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年([[1906年]])[[11月2日]]、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。他にも賢成住職の奔走による旧寺領の復権活動が実り、有償ながら[[国有林]]の譲渡が実現された。
 
:窮乏に喘いでいながらも譲渡資金は何とか捻出され、余剰金を残すことができた。この時、傷みの激しい堂宇の改築費用に充てる事も考えられたが、賢成住職は地域住民に還元する事を決断。[[鳳来寺鉄道]]、[[豊橋鉄道田口線|田口鉄道]]の敷設資金、[[愛知県立鳳来寺高等学校|鳳来寺女子学園]]の設立資金に使われた。
 
 
*[[大正]]3年に[[本堂]]が焼失したが、[[昭和]]49年に再建された。明治初期まで存在した諸僧坊も度重なる火災と明治以降の窮乏で廃絶となり今では松高院と医王院のわずか2院の堂宇のみが現存する(松高院には山門あり)。廃絶の諸僧坊跡地には石碑が立てられている
 
== 文化財 ==