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[[Image:Luca Giordano 023.jpg|thumb|「Triumph of the Medici in the clouds of Mount Olympus」, <small>フレスコ画(メディチ・リッカルディ宮 (フィレンツェ), 1684-1686.)</small>]]
[[Image:Luca Giordano 026.jpg|thumb|「Vertumnus and Pomona」, <small>個人所蔵</small>]]
'''ルカ・ジョルダーノ'''(Luca Giordano, [[1634年]][[10月18日]] - [[1705年]][[1月12日]]は、[[バロック]]後期のイタリア人画家。ナポリ派の巨匠であり、版画家としても知られる。同時代ならびに後世の絵画に大きな影響を与えた。
 
==前半生==
ルカ・ジョルダーノは画家であったアントニオ・ジョルダーノの息子としてイタリアの[[ナポリ]]に生まれた。年少期に[[副王|ナポリ副王]]の推薦で[[ホセ・デ・リベーラ]]に師事し、後に[[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]のもとで働きはじめたといわれている。ジョルダーノは非常に速く絵を描くことができ、「'''速描きのルカ''' (''Luca, Fa-presto'')」という愛称で呼ばれるようになった。しかしこれは貧しく吝嗇な父親から常に仕事に追い立てられており、「ルカ、もっと速く(描け) ("Luca, fa presto")」と言われ続けていたことに由来するともいわれている。まだ若かった彼は親の要求に従順に従い、ありあわせのものを急いで食べなければならないようなときでも絵筆を止めることは許されず、描き続けている彼の口に父親が手で食べ物を押し込むほどであった。
ジョルダーノの作品を仕上げる速さと、他人の目を欺けるほどまでに他の画家の作品を模倣できるような多才ぶりで、彼は「雷鳴 (''Fulmine'')」、絵画の「[[プローテウス]]」というあだ名をつけられるまでになった。
 
ジョルダーノは[[ヴェネツィア派]]と[[ローマ派]]の絵画スタイルを融合した作風を身につけた。ヴェネツィア派画家である[[パオロ・ヴェロネーゼ]]の装飾的な優美さと、ローマバロック派画家である[[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]の生き生きとした複雑な画面構成、荘重な様式とを兼ね備えたのである。また、彼は鮮やかで人目を引く色彩色でも注目されるようになる。1682年から1683年にかけて[[フィレンツェ]]で[[フレスコ|フレスコ画]]の作品群を製作しており、サンタ・マリア・デル・カルミネ教会 ([[:en:Santa Maria del Carmine, Florence|en:Santa Maria del Carmine, Florence]]) のコルシーニ礼拝堂 ([[:it:Cappella_Corsini|it:Cappella Corsini]]) のフレスコ画もこの時期に描かれた作品である。他にも[[クルスカ学会]]の天井画や、1670年代には[[メディチ家]]の邸宅であるメディチ・リッカルディ宮 ([[:en:Palazzo_Medici-Riccardi|en:Palazzo Medici-Riccardi]]) の、庭を見渡すように増築された回廊に障壁画を描いている。この回廊の障壁画はアレッサンドロ・セーニとフランチェスコ・リカルディによって企画、推進されたもので、理想化して描かれたメディチ家の人々を中心に、その周囲にさまざまな物語に登場する人物や神々などが描かれている。描かれているの は[[徳#四元徳(cardinal virtues)|四元徳]]や[[精霊]]を擬人化したもの、[[ポセイドーン|ネプチューン(ポセイドン)]]と[[アムピトリーテー]]、[[ディオニューソス|バックス(ディオニュソス)]]の凱旋、[[アドニス]]の死、[[ケレース]]と[[トリプトレモス]]などの神話中のエピソードである<ref>http://www.palazzo-medici.it/eng/sez_storia/riccardi.htm</ref>。
 
==スペイン宮廷画家時代 (1692年 - 1702年)==
[[カルロス2世 (スペイン王)|スペイン王カルロス2世]]は1687年にジョルダーノをマドリードに招聘し、彼はその後1692年から1702年までスペインに滞在することになる。スペインでは[[王宮 (マドリード)|マドリード王宮]]、ブエン・レティーロ公園 ([[:en:Parque del Buen Retiro|en:Parque del Buen Retiro]])、[[エル・エスコリアル|エル・エスコリアル聖ロレンソ修道院]]、[[トレド]]などで絵画制作を行った。ジョルダーノはスペイン宮廷でもてはやされ、カルロス2世は「騎士 (''caballero'')」の称号を彼に与えた。当時のジョルダーノの筆の速さを示すものとして、スペイン王妃に、妻がどういう女性かと尋ねられたときに、その場で自分の妻の絵を描き王妃に見せたという逸話が残っている。
 
ジョルダーノはスペインで多くの絵を描いた。[[エル・エスコリアル|エル・エスコリアル聖ロレンソ修道院]]ではルカ・カンビアーソ ([[:en:Luca Cambiasi|en:Luca Cambiasi]]) によって始められた絵画制作を引き継ぎ、「''Triumphs of the Church''」、「''Genealogy and Life of the Madonna''」、「''David and the Celebrated Women of Scripture''」や、[[モーゼ]]、[[ギデオン]]、[[ダビデ]]など聖書上の物語を題材とした巨大なフレスコ画を描いている。[[プラド美術館]]所蔵の有名な「[[ソロモン王]]の夢 (''Dream of Solomon'', 1963)」もこの頃に描かれたものである<ref>http://www.wga.hu/html/g/giordano/dream_s.html</ref>。ジョルダーノにはアニエッロ・ロッシ、マッテオ・パチェッリという二人の弟子がおり、スペインでの彼の仕事を手伝っていた。[[マドリッド]]では多くの[[油絵]]を描き、「キリスト生誕 (''Nativity'')」は彼の代表作の一つである。
 
==ナポリでの後期代表作==
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ジョルダーノは驚くほどに器用な画家で、そのことは逆に彼の作品を浅薄な印象を持つものにすることさえあった。彼はローマとナポリに数多くの作品を残しており、ナポリにある後期の代表作として、ジロラミーニ教会の「''Christ expelling the Traders from the Temple''」、サン・マルティーノ修道院 ([[:en:Certosa_di_San_Martino|en:Certosa di San Martino]]) のフレスコ画「ユディトの勝利 (''Triumph of Judith'')」<ref>http://www.wga.hu/html/g/giordano/triumph.html</ref>、カルトゥジオ会修道院所蔵の「''Moses and the Brazen Serpent''」、ジョルダーノ自身の墓がある聖ブリギット教会の天井画などがある。
 
ナポリ以外にある後期の代表作としては、[[ベルリン美術館]]所蔵の「[[パリスの審判]] (''the Judgment of Paris'')」、ローマのコルシーニ宮 ([[:en:Palazzo_Corsini|en:Palazzo Corsini]]) のギャラリー所蔵の「教会のキリストと博士 (''Christ with the Doctors in the Temple'')」などがある。
 
また、ジョルダーノは最晩年に、コルシーニ礼拝堂、メディチ・リッカルディ宮などに、後世にも影響を及ぼしたフレスコ画を残している。若年期には彫刻作品も作成しており、「[[バアル|バアル信徒]]の虐殺 (''Slaughter of the Priests of Baal'')」などにその多彩な才能を確認できる。そのほか、鏡やキャビネットなどの装飾も手がけており、これらの作品はイタリアの多くの宮殿に残されている。
 
ジョルダーノに師事した弟子たちのなかで一番有名なのはパオロ・ディ・マティス ([[:en:Paolo de Matteis|en:Paolo de Matteis]]) である。しかしジョルダーノは直接の弟子たち以外にも、同時代、後世の画家たちに多大な影響を与えている。ヴェネツィア派のジョバンニ・バッティスタ・ランゲッティ ([[:en:Giovan Battista Langetti|en:Giovan Battista Langetti]])、ジョバンニ・コーリ ([[:en:Giovanni Coli|en:Giovanni Coli]])、フィリッポ・ゲラルディ ([[:en:Filippo Gherardi|en:Filippo Gherardi]]) たちにも影響を与えたといわれる<ref>R. Wittkower pages 346, 348.</ref>。そのほかジョルダーノの弟子ではファン・アントニオ・ボウサス ([[:en:Juan Antonio Bouzas|en:Juan Antonio Boujas]]) や、ジョバンニ・バティスタ・ラーマ ([[:en:Giovanni Battista Lama|en:Giovanni Battista Lama]]) などが有名である。
 
== 脚注 ==