「ジュゼッペ・シニョーリ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Point136 (会話 | 投稿記録)
m bot:WP:JPE
Ponta2 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
22行目:
}}
 
'''ジュゼッペ・シニョーリ'''('''Giuseppe Signori''', [[1968年]][[2月17日]] - )は[[イタリア]]出身の元[[サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FWフォワード]]。セリエAで3度得点王に輝いた1990年代の欧州屈指のストライカー。
 
==プレースタイル==
小柄ながら俊敏かつパワーもあり、左足1本で状況を打破できるストライカー。FWとしてであれば左右問わずにプレーが可能。多少無理な体勢からでも強烈なシュートを撃てる。
また、[[ペナルティーキック (サッカー)|PK]]の際にはノーステップで繰り出されるキックも魅力的である。
[[フリーキック (サッカー)|FK]]も得意で、1993-94シーズンにはFKのみで[[ハットトリック]]を達成したこともある。
反面、[[ヘディング]]と右足に関しては若干難を残す。年間ゴール数のうち、右足とヘディングでの得点が1点ずつで、残りは全て左足という年もあった。
34行目:
 
転機が訪れたのは、90年代初期で、同時期に旋風を起こしたフォッジアで注目を集め、チェコ人指揮官[[ズデネク・ゼーマン]]と共に[[SSラツィオ|ラツィオ]]に引き抜かれた。
1992-93シーズンには26得点を挙げ押しも押されもせぬスーパースターの仲間入りを果たす。同シーズンにはドイツ代表の[[カール=ハインツ・リードレ]]とコンビを組んでいた。翌・1993-94シーズンには負傷のため、前半戦の多くを欠場せざるを得なかったが、最終的には24試合出場で23得点という脅威の得点率で2年連続[[得点王]]に輝いた。1995-96シーズンにも通算3度目の得点王に輝いたものの、その多くは[[PK]]によるものであり、往年のスピードはすでに失われていた。また、ラツィオ時代には毎年15ゴールは確実に奪取するもののタイトルとは全く縁がなく、ラツィオは、シニョーリが移籍した1997-1998シーズンに[[コッパ・イタリア]]を、1999-2000シーズンには[[スクデット]]を獲得するなど不思議と巡り合わせが悪かった。
 
[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]としては1992年5月31日の[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]戦([[ニューヘイブン]])で代表デビューを飾ると、1994年の[[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アメリカ大会]]を始め国際Aマッチ28試合出場7得点を記録した。クラブレベルでは実績を残したが、イタリア代表としては[[ロベルト・バッジョ]]や[[ピエルルイジ・カジラギ]]を重用する[[アリゴ・サッキ]]監督の下では、思うような結果を残せなかった。94年W杯時には、セリエA得点王として大会に臨んだが、左サイドハーフに起用されるなど、実力を発揮することはできなかった。