ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
「徳川匡時」の版間の差分
言語
ウォッチリストに追加
編集
履歴の双方向閲覧
新しい編集 →
削除された内容
追加された内容
ビジュアル
ウィキテキスト
2008年10月29日 (水) 11:13時点における版
編集
124.110.9.212
(
会話
)
←
新しいページ: ''''徳川 匡時'''(とくがわ まさとき、
文化
2年(1805年) -
天保
10年(
1839年
))は、[[御三卿|徳川...'
2008年10月29日 (水) 11:51時点における版
編集
取り消し
TTTNIS
(
会話
|
投稿記録
)
拡張承認された利用者
11,345
回編集
m
編集の要約なし
新しい編集 →
1行目:
'''徳川 匡時'''(とくがわ まさとき、[[文化 (元号)|文化]]2年(1805年)
-
-
[[天保]]10年([[1839年]]))は、[[御三卿|徳川御三卿]]の一つ[[田安徳川家]]の世嗣。第3代当主・[[徳川斉匡]]の次男。
田安徳川家の嫡子であったが、父・斉匡は兄の将軍[[徳川家斉]]の子である[[徳川斉荘]]を養子に迎える。このため、匡時は病弱を理由に天保7年([[1836年]])8月、廃嫡された。天保10年(1839年)、35歳で没した。
{{DEFAULTSORT:とくかわ まさとき}}