「堀尾忠氏」の版間の差分

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慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、家康方の東軍に与して[[山内一豊]]と城提供の策を謀議し、また戦前に[[加賀野井重望]]による殺傷事件に遭遇して負傷した父に代わって東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立てる。本戦にも参加したが、こちらでは[[長曽我部盛親]]の出撃を牽制したのみで武功を挙げていない。戦後、前哨戦における武功を徳川家康から賞されて、[[出雲国|出雲]]24万石に加増転封された。
 
ちなみに隠居の父吉晴は浜松12万石とは別に5万石の隠居料を与えられていたが、忠氏の加増転封に伴い収公されている。その後は父と共に協力して藩政を行なったが、慶長9年(1604年)8月4日、父に先立って病死した。享年27。後を子の忠晴が継いだ。
 
病弱でもなく急死する理由は見当たらず、本当に病死かどうかは謎である。一説には[[ニホンマムシ]]にかまれたためともいう。藩主としては松江城の城地を選定するという治績を残している。