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'''山内 清男'''(やまのうち すがお、[[1902年]] - [[1970年]])は、日本の[[考古学者]]。日本の[[考古東京大学]]史上で重要な考古[[名誉教授]]。[[成城大者の一人]]教授。[[文学博士]]
 
日本の[[考古学]]史上で重要な考古学者の一人。[[層位学的研究法]]を用いた遺物の年代決定を本格的に用いて、[[縄文土器]]の全国的な[[編年]]を初めて行なった。また、縄文土器の表面の文様が縄によるものであることを最初実験よって実証した。
 
== 来歴 ==
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[[1902年]][[1月2日]]、[[東京府]][[東京市]]下谷区谷中清水町で国文学者で国語教師でもある山内素行の長男として生まれた。名前の「清男」は[[記紀]]において[[スサノオ]]が[[ヤマタノオロチ]]を倒した時の言葉「吾が心清清し(すがすがし)」に基づく。[[1901年]]に栃木師範学校付属小学校に入学。在学中に[[田中美知太郎]](後の哲学者、京都大学教授)が転校して来て、以降終生の友人として接することになる。[[1914年]]には父の就職先である[[早稲田中学校・高等学校|早稲田中学校]]に入学<ref>尚、田中は[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]に進学したが、同期に[[坂詰仲男]]がいた。</ref>。
 
同じ[[1915年]]、[[丘浅次郎]]の『進化論講話』を読み[[進化論]]に興味を持った山内は、「翻訳よりも安い」という理由で『[[種の起源]]』の原著を購入し、田中らと回し読みを始める。同時に、[[新ラマルク説]]、[[メンデル]]の[[メンデルの法則|遺伝説]]、[[コンクリン]]の『遺伝と境遇』を読み、進化論への興味を発展させる。[[1917年]]、[[堀之内貝塚]]で縄文土器を採集し、初めて考古学に接する。[[1918年]]になると、当時の流行思想であった[[マルクス主義]]、[[無政府主義]]、[[労働組合]]に興味を持ち、[[岡田来司]]と共に『[[資本論]]』『[[フランスにおける内乱]]』、[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]の『相互扶助』などの洋書を読んでいる。しかしこれらに対して山内は批判的で、特に『相互扶助』については「生物学的に無価値だ」とまで言い切っている<ref>佐原「山内清男論」</ref>。9月には、谷川磐雄(後の[[大場磐雄]])と出会い、12月に考古学者である[[鳥居龍蔵]]の元を訪れている。以後、鳥居を師として山内の考古学研究は進行することになる。
 
=== 東京帝国大学人類学教室 ===
[[1919年]]に鳥居の勧めで[[東京大学|東京帝国大学]]理学部人類学研究室予科に進学。この時、「[[旧制高等学校]]から大学に進学する」という当時の常道<ref>佐原眞「山内清男論」</ref>から外れた進学をしたため、家族、特に父との関係は悪くなっていった。予科では、[[形質人類学]]に興味を持ち、[[東京人類学会]]に入会している。[[1921年]]に鳥居が主導して行なわれた堀之内貝塚の発掘調査や、一年後輩の[[八幡一郎]]と行なった[[上本郷貝塚]]の調査を行い、縄文土器研究の第一歩を踏む。[[1922年]]、人類学選科を終了し人間の[[遺伝]]について専攻することを決意し、東京帝国大学人類学研究室と自宅を往復しつつ、人類学と先史学を研究。同年、初の研究論文である「[[諏訪郡]]住民の人類学I―大正十一年度諏訪郡壮丁の人類学的研究」を発表した。その後、再び上本郷貝塚を調査した後、志願して1年間入営するが、大半を[[国立病院機構|衛戍病院]]で過ごして除隊されている。
 
=== [[社会主義]]と山内 ===
山内は帝大人類学教室にいた[[1920年]]代前半に、社会主義運動にも参加している。[[1920年]]から[[1924年]]にかけて回覧雑誌『鐘』を発行して社会主義研究をしているほか、第1回と第2回の[[メーデー]]にも参加している。また、[[大杉栄]]の北風会の会合にも参加していたが、これらの活動が当局に目をつけられることになり<ref>1921年の田中の日記には''山内のところへは刑事が来た相だ。カービンスキー''(=山内)''だけに人一倍あわててゐるだらう。''とある。</ref>、鹿児島の曽祖母の下への逃亡や[[鍾乳洞]]への逃亡を経験している<ref>佐原「山内清男論」</ref>。いずれにしても、これらの経験は山内に権力や権威に対する反逆心を与え、その後の研究にも大きな影響を与えることになった<ref>伊藤信雄「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」・佐藤達夫「学史上における山内清男の業績」</ref>。
 
=== [[東北大学|東北帝国大学]]医学部と先史考古学会 ===
[[1924年]]、東北帝国大学医学部解剖学研究室副手になったが、東北帝国大学教授の[[長谷部言人]]と対立し、実際に勤務するのは翌年まで延びる。これは、長谷部が遺伝学の意義を認めていなかったためで、そのことが[[権威主義]]に反発する山内の真情を害したためだと考えられている<ref>伊藤信雄「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」</ref>。同年、八幡と共に小川貝塚を調査したが、同じ頃に[[モンテニウス]]の『考古学研究法』の原著を読み[[地層累重の法則]]を知ったほか、[[松本彦七郎]]の層位学的研究法に興味を持ち、この時の調査で層位研究による編年に自信を持ったとされている。
 
その後、毎年のように[[東北地方]]各地の[[貝塚]]を[[発掘調査]]し、縄文土器資料や層位による新旧の情報を蓄積していった。[[1932年]]から[[1933年]]には、その結果を「日本遠古之文化」として雑誌『ドルメン』誌上に発表したが、1933年に東北帝国大学医学部を退職して上京。一時期、「[[パピルス]]書院」なる[[原稿用紙]]店を経営して、日本で最初の横書き原稿用紙<ref>佐原「山内清男論」</ref>を製造・販売していたが、すぐに閉鎖して、以降どの研究機関にも属さない研究生活を送ることになる。同年、原始文化研究会を創立して、月例会を主催するようになる。この頃になると、山内や八幡、そして[[甲野勇]]による編年による年代決定は、特に[[大山柏]]が主催する史前学研究所などで大勢を占めるようになっていたが、記紀の記述に基づいた常識による「常識考古学」を主張していた[[喜田貞吉]]との間に対立が生じて、その衝突は[[1936年]]の[[ミネルヴァ論争]]で最高潮を迎えることになる。
 
=== 縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行 ===
[[1937年]]、原始文化研究会を先史考古学会に改名し、雑誌『先史考古学』の発刊を始める。その創刊号で、山内は当時の段階で判明していた全国の縄文土器の共伴関係や新旧を表にまとめ、「縄紋土器の細別と大別」として発表した。当時、記紀の記述どおり、[[東日本]]では[[石器時代]]が[[西日本]]の[[鎌倉時代]]まで続いていたとされていた中で、縄文時代の終わりが[[亀ヶ岡土器]]と他の縄文土器の共伴から追跡することで、縄文時代の終わりは全国的に同じ時期であるとした山内の研究は、当時の考古学会に大きな衝撃を与えた。
 
さらに山内は、全国の考古学者による発掘調査で全国の土器編年をより確実なものにするために、土器の[[写真]]を公表することで基準となる土器を統一させることを考え、[[1932年]]から『日本先史土器図譜 第一部・関東地方』の刊行を開始した。第一部の刊行を1年で完了した山内は、続いて『第二部・東北地方』の刊行準備を進めたが、準備中に印刷所が企業整理・鉄材回収で閉鎖され、さらに[[仙台]]に疎開している間に[[1945年]]の[[東京大空襲]]で東京の自宅、さらに写真乾板(大半が未発表)を預けていた友人宅、土器を保管していた[[芹沢長介]]宅・史前学研究所が全焼してしまい以降の刊行は不可能になってしまった。
 
=== 縄文原体研究と[[放射性炭素年代測定|炭素14年代測定法]]の批判 ===
[[1946年]]、[[満州]]で調査中に終戦を迎え、抑留されてしまった八幡に代わり、東京大学理学部人類学教室非常勤講師になり、翌年には委託講師となった。戦後になって、山内は戦前から暖めていた縄文原体の研究をまとめ始めた。そして、[[1962年]]に縄文原体の研究は日本先史時代の縄紋」としてまとめられ、この論文により山内は[[京都大学]]より文学博士の学位授与された。同日、東大を定年退職して、[[成城大学]]文芸学部教授に就任した。
 
一方で、山内は縄文時代の始まりについて、ヨーロッパの土器年代や石器の年代から約3000年前としていた<ref>甲野・江上・後藤・山内・八幡 「座談会 日本石器時代文化の源流と下限を語る」</ref>が、戦後になって[[夏島貝塚]]の縄文時代早期の層の炭素14年代が約9500年前という結果になった<ref>芹沢長介「日本最古の文化と縄文土器の起源」 『科学』1959年8月号</ref>。これに反発した山内は「縄文草創期の諸問題」のなかで型式が増加しすぎた縄文時代早期を縄文時代草創期と縄文時代早期に分けた上で、草創期の年代を約4500年前と主張し、炭素14年代測定法を「脚短名年代の[[インフレーション]]」「アメリカ[[帝国主義]]」などと批判した。しかし、山内が反論に用いた大陸の遺物の年代が不明瞭であり、また山内の石器の認定法に問題があったため、支持されることなく、芹沢らの炭素14年代測定法による年代測定が主流となっていった。
従来から縄文時代の年代を3000年前としていた。「矢柄研磨器について」の中で、欧州やシベリア、北朝鮮から出土した矢柄研磨器<ref>[[砥石]]の一種で、断面が半円形をしており水平面に溝を有する。山内は、こうした砥石が2個ずつ出土する点や、射手の墓場に副葬されている点、[[インディアン]]などの民族例から、溝に[[矢]]の柄を挟み、研磨してまっすぐにする道具だと考えた。</ref>の年代を紀元前2500年前から紀元前1500年前とした上で、こうした矢柄研磨器が日本各地の縄文時代草創期から早期の遺跡から出土することから、縄文時代も古くて紀元前2500年前から始まり、そうすると縄文時代早期後半から前期前半の縄文海進がリトリナ海進に一致することを主張した。
 
その後、芹沢長介は山内の反論について、シベリアではイサコヴォ期([[沖積世]]初頭から[[新石器時代]]初頭)までの約4000年の資料が少なく不明瞭であり、中国でも周口店上洞文化から[[彩文文化]]までの研究が未発達であることを指摘して、大陸の矢柄研磨器の年代が縄文時代の年代決定の根拠にならない<ref>芹沢長介「旧石器時代の終末と土器の発生」 信濃史学会『信濃』第19巻第4号 [[1967年]]</ref>と批判した。また、山内が「矢柄研磨器」とした溝のある砥石についても、その後の研究の進展で1万年前に及ぶものがあることが指摘され<ref>加藤晋平「北東アジアの単条有溝砥石について」</ref>、また日本においても矢柄研磨器が旧石器時代から弥生時代に広く存在し、しかも山内が「矢柄研磨器」とした砥石の大半が2個一組で出土したわけではなく、水平面に溝があるだけで矢柄研磨器とみなしていることを批判する論考も見られる<ref>宮下健司「有溝砥石」 加藤晋平・小林達雄・藤本強 編『縄文文化の研究7 道具と技術』 雄山閣出版 ISBN4-639-00248-3 C3321 [[1995年]]</ref>
 
[[1970年]][[8月29日]]、[[糖尿病]]に伴う肺炎で逝去。68歳の生涯を閉じた。
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== 功績 ==
=== 縄文土器編年の作成 ===
膨大な遺跡の[[発掘調査]]に裏打ちされた的確な視点により、日本全国の縄文土器[[型式学的研究法|型式]][[編年]]をほぼ完成させた。縄文土器の型式には「○×式」という名称が付いているが、その多くは山内が調査に関係した遺跡である。ちなみに、山内は父親が[[国語学者]]であったこともあり、また文様による縄文土器の編年を実施するために「縄紋」と表記することにこだわっており、山内学派の考古学者は「縄紋」を用いる傾向がある。
膨大な遺跡の[[発掘調査]]に裏打ちされた的確な視点により、日本全国の縄文土器[[型式学的研究法|型式]][[編年]]を初めて作成した。縄文土器の型式には「○×式」という名称が付いているが、その多くは山内が調査に関係した遺跡である。ちなみに、山内は父親が[[国語学者]]であったこともあり、また文様による縄文土器の編年を実施するために「縄紋」と表記することにこだわっており、山内学派の考古学者は「縄紋」を用いる傾向がある。
 
=== 縄文原体の解明 ===
また、型式編年と並んで山内の偉大な業績のひとつに上げられるのが、「縄文原体]を解明したことである。縄紋原体とは、縄文土器に施文され、名称の由来にもなった「コード・マーク」のことである。それまでの研究者の説<ref>例えば、中山平次郎「貝塚土器の席紋と其類似紋」「貝塚土器の縄紋と古瓦の縄紋」『考古學雑誌』第8巻12号 考古學會 [[1918年]]</ref>では筵を押し付けたとか縄を押し付けたなどであった。山内は紙縒りで様々な縒り方の紐を作り、それを転がしたり押し付けたりすることによって多くのバリエーションの「縄紋」が発生することを解明した。
また、型式編年と並んで山内の偉大な業績のひとつに上げられるのが、「縄文原体]を解明したことである。縄紋原体とは、縄文土器に施文され、名称の由来にもなった「コード・マーク」のことである。それまでの研究者の説<ref>例えば、中山平次郎「貝塚土器の席紋と其類似紋」「貝塚土器の縄紋と古瓦の縄紋」や杉山壽榮男 『日本原始工芸史 原始篇』</ref>では筵を押し付けたとか縄を押し付けたなどであった。山内は紙縒りで様々な縒り方の紐を作り、それを転がしたり押し付けたりすることによって多くのバリエーションの「縄紋」が発生することを解明した。
 
=== 縄文時代開始年代の解明 ===
山内は縄文時代の始まりについて、従来から縄文時代の年代を一つの「期」を50年として、50X6=300年として、弥生時代の始まりを[[紀元前700年]]頃とした上で、縄文時代の始まりを約3000年前としていた。その後、「矢柄研磨器について」の中で、欧州やシベリア、北朝鮮から出土した矢柄研磨器<ref>[[砥石]]の一種で、断面が半円形をしており水平面に溝を有する。山内は、こうした砥石が2個ずつ出土する点や、射手の墓場に副葬されている点、[[インディアン]]などの民族例から、溝に[[矢]]の柄を挟み、研磨してまっすぐにする道具だと考えた。</ref>の年代を紀元前2500年前から紀元前1500年前とした上で、こうした矢柄研磨器が日本各地の縄文時代草創期から早期の遺跡から出土することから、縄文時代の始まりを紀元前2500年前に修正し、そうすると縄文時代早期後半から前期前半の[[縄文海進]]がリトリナ海進に一致することを主張した。
 
その後、芹沢長介は山内の反論について、シベリアではイサコヴォ期([[沖積世]]初頭から[[新石器時代]]初頭)までの約4000年の資料が少なく不明瞭であり、中国でも周口店上洞文化から[[彩文文化]]までの研究が未発達であることを指摘して、大陸の矢柄研磨器の年代が縄文時代の年代決定の根拠にならない<ref>芹沢長介「旧石器時代の終末と土器の発生」</ref>と批判した。また、山内が「矢柄研磨器」とした溝のある砥石についても、その後の研究の進展で1万年前に及ぶものがあることが指摘され<ref>加藤晋平「北東アジアの単条有溝砥石について」</ref>、また日本においても矢柄研磨器が旧石器時代から弥生時代に広く存在し、しかも山内が「矢柄研磨器」とした砥石の大半が2個一組で出土したわけではなく、水平面に溝があるだけで矢柄研磨器とみなしていることを批判する論考も見られる<ref>宮下健司「有溝砥石」</ref>
== 脚注 ==
<references/>
 
 
== 参考文献主な著作 ==
あまりにも膨大な量になるため、ここでは主要なものをカテゴリ別に示した。題名の旧字体は全て新字体に直した。''斜字''になっている論文は佐藤達夫編『山内清男集』に転載された論文である。
*山内 淸男  「石器時代にも稲あり」             『人類学雑誌』第40巻第5号    東京人類学会 1925
       「磨製片刃石斧の意義」             『人類学雑誌』第47巻第7号    東京人類学会 1932
       「日本遠古之文化」               『ドルメン』第2巻第4~9・12号 岡書院 1932~33
       「稲の刈り方」                 『ドルメン』第3巻第2号      岡書院    1934
「古式縄紋土器研究最近の情勢」         『ドルメン』第4巻第1号      岡書院    1935
「縄紋式文化」                 『ドルメン』第4巻第6号      岡書院    1935
「石器時代人の壽命」              『ミネルヴァ』2          翰林書房   1936
「日本考古學の秩序」              『ミネルヴァ』4          翰林書房   1936
「考古學の正道 ―喜田博士に呈す―」      『ミネルヴァ』6・7        翰林書房   1936
「日本に於ける農業の起源」           『歴史公論』第6巻第1号      雄山閣    1937
「縄紋土器型式の大別と細別」          『先史考古学』第1巻第1号     先史考古学会 1937
「縄紋土器の技法」               『世界陶磁全集 第一巻』      河出書房   1958
「画竜点睛の弁」                『成城新聞』            成城新聞   1964
「洞穴遺跡の年代」    日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会 編『日本の洞穴遺跡』 平凡社    1967
『日本先史土器図譜』                                先史考古学会 1967
「矢柄研磨器について」  金関丈夫博士古稀記念委員会 編『日本民族と南方文化』    平凡社    1968
「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」   『古代』第48号       早稲田大学考古学会 1968
「縄文草創期の諸問題」              『MUSEUM』224       東京国立大学 1969
※これらの内、論文は『先史考古学論集(一)』・『先史考古学論集(二)』示人社 1997 に再版
『日本先史土器図譜』                                示人社    1997
『日本先史土器の縄紋』                               示人社    1997
中山 平次郎 「貝塚土器の席紋と其類似紋」「貝塚土器の縄紋と古瓦の縄紋」『考古學雑誌』第8巻12号 考古學會   1918
甲野 勇・江上 波夫・後藤 守一・山内 淸男・八幡 一郎「座談會 日本石器時代文化の源流と下限を語る」
『ミネルヴァ』創刊号        翰林書房   1936
喜田 貞吉  「日本石器時代の終末期に就いて」        『ミネルヴァ』3          翰林書房   1936
喜田 貞吉  「大山史前學研究所發掘猫骨の無斷發表に就いて」 『ミネルヴァ』4          翰林書房   1936
喜田 貞吉  「「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」 ―日本石器時代終末期問題―」
『ミネルヴァ』5          翰林書房   1936
喜田 貞吉  「又も石器時代遺蹟から宋錢の發見」       『ミネルヴァ』6・7         翰林書房   1936
甲野 勇・馬場 修・江上 波夫・後藤 守一・伊藤 信雄・喜田 貞吉・三上 次男・山内 淸男・八幡 一郎
「座談會 北海道・千島・樺太の古代文化を檢討する 古代北方文化の構造と系統」『ミネルヴァ』5    翰林書房   1936
※『ミネルヴァ』誌上に掲載されたものは甲野 勇 編『ミネルヴァ(全1巻)』学生社 1986に再録
甲野 勇   「遺物用途年代と編年」             『ひだびと』5巻11号     飛騨考古土俗学会 1937
※江坂輝彌 編『甲野勇集』日本考古学選集20 築地書館 1974 に再録
杉山 壽榮男 『日本原始工芸史 原始篇』                             雄山閣    1942
甲野 勇   『縄文土器のはなし』                                世界社    1953
※『縄文土器の話』 学生社 1976 で再版
坂本 太郎・家永 三郎・井上 三貞・大野 晋 校註『日本書紀 上』日本古典文学大系67       岩波書店   1967芹沢 長介  「旧石器時代の終末と土器の発生」      『信濃』第19巻第4号         信濃史学会  1967
藤森 栄一  「いつまで編年をやるか」          『考古学ジャーナル』35    ニュー・サイエンス社 1969
No.5
 
これらの論文は、未発表のものを含めて『日本先史土器図譜』『日本先史土器の縄紋』『先史考古学論集(一)』『先史考古学論集(二)』(いずれも示人社 1997)に再録されている。
斎藤 忠   「山内さんを憶う ―仙台の事ども―」
池田 次郎  「山内清男先生と私 ―凄まじい学問への執念―」   ※〔記念論集刊行会1996〕に再録
江坂 輝弥  「山内清男先生の思い出 ―逸話の多い耐乏生活時代―」
「山内清男先生をしのぶ」『考古学ジャーナル』49    ニュー・サイエンス社 1970
佐原 真   「1971年の考古学界の動向 ―弥生時代(下)―」『考古学ジャーナル』74   ニュー・サイエンス社 1972
齊藤 忠 編  『喜田貞吉集』日本考古学選集8                           築地書館   1972
渡辺 誠   『縄文時代の漁業』考古学選書7                           雄山閣出版  1973
佐藤 達夫 編 『山内清男集』日本考古学選集21                          築地書館   1974
田中 美知太郎「山内清男と私」『日本考古学選集集報』11                      築地書館   1974
工藤 雅樹  「ミネルヴァ論争とその前後」        『考古学研究』第20巻第3号      考古学研究会 1974
斎藤 忠   『日本考古学史』日本歴史叢書34                          吉川弘文館  1974
塚田 光・小山 勲・武井 則道 「江馬 修と飛騨の考古学」 『季刊 どるめん』16号        JICC出版局1978
芹沢 長介  『日本旧石器時代』岩波新書(黄版)209                       岩波書店   1982
斎藤 忠   『日本考古学史辞典』                                東京堂出版  1984
松井 章   「「サケ・マス論」の評価と今後の展望」     『考古学研究』第31巻第4号     考古学研究会 1985
横山 浩一  「型式論」
麻生 優   「層位論」
   近藤 義郎・横山 浩一 他編『研究の方法』         岩波講座 日本考古学1      岩波書店   1985
戸沢 充則・勅使河原 彰 「縄文時代」   
近藤 義郎・横山 浩一 他編『日本考古学の現状―文献解題Ⅰ』岩波講座 日本考古学別巻1    岩波書店   1986
勅使河原 彰 『日本考古学史 年表と解説』UP考古学選書1                   東京大学出版会 1988
下條 信行  「石器」
田村 晃一  「山内清男論」
   金関 恕・佐原 眞 編『研究の歩み』弥生文化の研究10                   雄山閣出版  1988
田中 琢・佐原 真 『考古学の散歩道』岩波新書                          岩波書店   1993
大村 裕   「「縄紋(・)」と「縄文(・)」 ―山内清男はなぜ「縄紋(・)」にこだわったのか?―」
『考古学研究』第41巻第2号     考古学研究会 1994
 宮下 健司  「有溝砥石」 加藤 晋平・小林 達雄・藤本 強 編『道具と技術』縄文文化の研究7  雄山閣出版  1995
木村 幾多郎 「中山平次郎論」
渡辺 誠   「長谷部言人論」
鈴木 公雄  「松本彦七郎論―土器研究にみる層位と型式の関係―」
佐原 眞   「山内清男論」      ※金関恕・春成秀爾 編『考古学への案内』佐原真の仕事1 岩波書店 2005に再録
加藤 晋平・小林 達雄・藤本 強 編『縄文時代研究史』縄文文化の研究10           雄山閣出版  1995
 
; 縄文土器の編年
伊藤信雄「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」『考古学研究』第24巻第3・4号 [[考古学研究会]] [[1977年]]
* 「下総上本郷貝塚」 『人類学雑誌』第43巻第10号 東京人類学会 1928年
* ''「関東北に於ける繊維土器」'' 『史前学雑誌』第1巻第2号 史前学研究所 1929年
* ''「繊維土器について―追加一~三」'' 『史前学雑誌』第1巻第3号・第2巻第1号・第2巻第3号 史前学研究所 1929年~1930年
* ''「日本遠古之文化(1)~(6)」'' 『ドルメン』第1巻第4号~第2巻第2号 岡書院 1932~1933年
* ''「縄紋土器型式の大別と細別」'' 『先史考古学』第1巻第1号 先史考古学会 1938年
* 『日本先史土器図譜・第一部―関東地方・第一輯~第十輯』 1939年~1941年
 
; 縄文時代の年代
* ''「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末」'' 『考古学』第1巻第3号 東京考古学会 1930年
* ミネルヴァ論争関連
** 「日本考古学の秩序」 『ミネルヴァ』4 翰林書房 1936年
** 「考古学の正道 -喜田博士に呈す-」 『ミネルヴァ』6・7 翰林書房 1936年
* ''「真福寺貝塚の再吟味」'' 『ドルメン』第3巻第12号 岡書院 1934年
* 「縄紋時代の古さ」 『科学読売』第12巻第13号 [[讀賣新聞]]社 1962年
* 「緒言」「日本先史時代解説」「縄紋式土器・総論」「図版解説」 『縄紋式土器』日本原始美術・第1巻 [[講談社]] 1964年
* 「画竜点晴の弁(上)~(下)」 『成城大学新聞』84~86号 成城大学 1966年
* 「洞穴遺跡の年代」 [[日本考古学協会]]洞穴遺跡調査特別委員会編 『日本の洞穴遺跡』 [[平凡社]] 1967年
* ''「矢柄研磨器について」'' 金関丈夫先生古希記念委員会編 『日本民族と南方文化』 平凡社 1968年
* 「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」 『古代』48号 早稲田大学考古学会 1968年
* ''「縄文草創期の諸問題」'' 『MUSEUM』224 [[東京国立博物館]] 1969年
 
; 縄文施文技法
* 「縄紋土器の技法」「図版解説」 『世界陶磁全集 第一巻』 河出書房 1958年
* 「縄文時代研究の現段階」 『日本と世界の歴史 第1巻』 [[学習研究社]] 1968年
 
; 弥生文化研究
* 「石器時代土器底面に於ける稲籾の圧痕」 ※未発表
* ''「石器時代にも稲あり」'' 『人類学雑誌』第40巻第5号 東京人類学会 1925年
* ''「磨製片刃石斧の意義」'' 『人類学雑誌』第47巻第7号 東京人類学会 1932年
* 「稲の刈り方」 『ドルメン』第3巻第2号 岡書院 1934年
* ''「石包丁の意義」'' 『ドルメン』第3巻第11号 岡書院 1934年
* ''「日本に於ける農業の起源」'' 『歴史公論』第6巻第1号 雄山閣 1937年
 
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
山内の著作以外のものを示した。
* 中山平次郎「貝塚土器の席紋と其類似紋」「貝塚土器の縄紋と古瓦の縄紋」『考古学雑誌』第8巻12号 考古学会 1918年
* 甲野勇・[[江上波夫]]・[[後藤守一]]・山内清男・八幡一郎 「座談会 日本石器時代文化の源流と下限を語る」 『ミネルヴァ』1 翰林書房 1936年
* 喜田貞吉 「日本石器時代の終末期に就いて」 『ミネルヴァ』3 翰林書房 1936年
* 喜田貞吉 「大山史前學研究所發掘猫骨の無斷發表に就いて」 『ミネルヴァ』4 翰林書房 1936年
* 喜田貞吉 「「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」 -日本石器時代終末期問題-」『ミネルヴァ』5 翰林書房 1936年
* 喜田貞吉 「又も石器時代遺蹟から宋錢の發見」 『ミネルヴァ』6・7 翰林書房 1936年
* 甲野勇・馬場修・[[江上波夫]]・後藤守一・伊藤信雄・喜田貞吉・[[三上次男]]・山内清男・八幡一郎 「座談会 北海道・千島・樺太の古代文化を検討する 古代北方文化の構造と系統 (1)~(3)」 『ミネルヴァ』5~8 翰林書房 1936年
** 『ミネルヴァ』誌上に掲載されたものは甲野勇編『ミネルヴァ(全1巻)』学生社 1986年 3021-270120-1017 に再録
* 杉山壽榮男 『日本原始工芸史 原始篇』 雄山閣 1942年
* 芹沢長介 「旧石器時代の終末と土器の発生」 『信濃』第19巻第4号 信濃史学会 1967年
* 齊藤忠編 『喜田貞吉集』日本考古学選集8 築地書館 1972年
* 佐藤達夫編 『山内清男集』日本考古学選集21 築地書館 1974年 3321-174052-4818
* 田中美知太郎 「山内清男と私」 『日本考古学選集集報』11 築地書館 1974年
* 工藤雅樹 「ミネルヴァ論争とその前後」 『考古学研究』第20巻第3号 [[考古学研究会]] 1974年
* 伊藤信雄 「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」『考古学研究』第24巻第3・4号 考古学研究会 1977年
* 勅使河原彰 『日本考古学史 年表と解説』UP考古学選書1 東京大学出版会 1988年 ISBN4-13-024101-X
* 下條信行 「石器」
* 田村晃一 「山内清男論」
** 金関恕・[[佐原真]] 編『研究の歩み』弥生文化の研究10 雄山閣出版 1988年 ISBN4-639-00729-9
* [[田中琢]]・佐原真 『考古学の散歩道』岩波新書 [[岩波書店]] 1993年
* 大村裕 「「縄紋」と「縄文」 -山内清男はなぜ「縄紋」にこだわったのか?-」 『考古学研究』第41巻第2号 考古学研究会 1994年
* 宮下健司 「有溝砥石」 加藤晋平・小林達雄・藤本強 編『道具と技術』縄文文化の研究7 雄山閣出版 1995年
* 佐原真 「山内清男論」 加藤晋平・[[小林達雄]]・藤本強編 『縄文時代研究史』縄文文化の研究10 雄山閣出版 1995年 ISBN4-639-00343-9
** 後に金関恕・春成秀爾 編『考古学への案内』佐原真の仕事1 岩波書店 2005年 ISBN4-00-027111-3に再録。
 
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