削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
獅子の鬣 (会話 | 投稿記録)
出典が明示された記述を、みんなの合意なく勝手に修正しないでください。
1行目:
'''山口 春吉'''(やまぐち はるきち、[[1881年]] - [[1938年]]1月17日<ref>出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』[[メディアックス]]、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.221</ref>)は、[[日本]]の[[ヤクザ]]。初代[[山口組]]組長。[[兵庫県]][[津名郡]]来馬村(後の[[淡路市]])出身。
 
==来歴==
[[明治]]14年([[1881年]])、[[兵庫県]][[津名郡]]来馬村で生まれた。
 
その後、[[徴兵]]され、[[日露戦争]]に参加した。
 
日露戦争から復員すると、[[淡路島]]の津名郡で[[漁師]]をした。
 
[[明治]]39年([[1906年]])5月、漁師を止め、船で[[神戸市]]に行った。[[神戸港]]で下船すると、手配師に誘われて、神戸市[[生田区]]栄町の[[海運業]]・[[倉橋組]]の飯場に案内された。倉橋組の飯場責任者・[[森田末松]]と会い、倉橋組で働くことになった。
 
[[大正]]元年([[1912年]])、九州の川筋[[ヤクザ]]だった[[大島秀吉]](通称は'''運河の親分''')が神戸市に移住した。大島秀吉は、神戸市の[[富永組]]・[[富永亀吉]]組長の客分となり、用心棒稼業を始めた。
 
その後、大島秀吉は[[大島組]]を結成し、人夫供給業を始めた。山口春吉は現場監督として大島組に入った。
 
大正4年([[1915年]])3月、神戸市[[兵庫区]]西出町で、[[沖仲仕]]50人を集めて、[[山口組]]を結成した。看板は、1枚ヒノキで、「菱」に「山」の字の代紋を描き、代紋の下に「山口組」と書いた。
 
同年、[[鬼頭良之助]](本名は'''森田良吉''')と兄弟分となった。
 
大正12年([[1923年]])、富永亀吉は、[[中山組]]・[[中山八十吉]]組長と話し合いの最中、中山八十吉にあいくちで刺殺された。富永亀吉の跡目・[[石川恵造]]もすぐに病死したため、富永組を大島秀吉が吸収した。
 
大正13年([[1924年]])、山口組事務所で、鬼頭良之助に「山口組を、山口春吉の長男・[[山口登]]に継がせること」を相談した。鬼頭良之助も賛成した。
 
大正14年([[1925年]])1月、山口組の跡目を山口登に譲り、引退した。
 
昭和13年([[1938年]])1月17日、山口春吉は死亡した<ref>出典は、[[正延哲士]]・[[天龍寺弦]]・[[池田鷹一]]『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』[[竹書房]]、2007年、ISBN 978-4-8124-6387-1</ref>。[[享年]]57。
 
 
==人物・エピソード==
*[[浪花節]]、特に[[鼈甲斎虎丸]]が好きだった。
 
==脚注==
<references />
 
== 参考文献 ==
*『山口組・50の謎を追う』[[洋泉社]]、2004年、ISBN 4-89691-796-0
*[[飯干晃一]]『山口組三代目 1野望篇』 [[徳間書店]]<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9
*[[正延哲士]]・[[天龍寺弦]]・[[池田鷹一]]『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』[[竹書房]]、2006年、ISBN 4-8124-6362-9
{{先代次代|[[山口組]]組長|初代: 1915-1925|―|[[山口登|山口 登]]}}
 
[[Category:ヤクザ]]
[[Category:山口組]]
[[category:神戸市]]
[[Category:1881年生]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
{{DEFAULTSORT:やまくちはるきち}}
[[en:Harukichi Yamaguchi]]