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[[画像:鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮.jpg|250px|right|thumb|大物忌神社 蕨岡口之宮本殿]]
 
'''鳥海山大物忌神社'''(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、[[山形県]][[飽海郡]][[遊佐町]]にある[[神社]]。[[出羽国]][[一の宮|一宮]]、[[式内社]](名神大)、旧[[社格]]は国幣中社で、戦後、[[神社本庁]]の[[別表神社]]となった。[[鳥海山]]頂の本社と、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する。主祭神は[[大物忌神|大物忌大神]]で、『神祗志料』や『[[大日本国一宮記]]』では[[ウカノミタマ|倉稲魂命]]のことであるとしている。[[2008年]]([[平成]]20年)国の[[史跡]]に指定された。
 
== 歴史 ==
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[[越国]]より始められた夷征は、[[慶雲]]から[[和銅]]の頃に[[庄内地方|庄内]]以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた[[蝦夷]]が群居し、常に噴煙を吐く鳥海山が時々大爆発する状況は夷征に着手した朝廷軍にとって戦慄すべきものであった。日本において[[山岳信仰]]は盛んであったが、前述の状況から、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑うに至ったのではないかと『名勝鳥海山』<ref name="choukai">安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会</ref>では推察している。
 
[[日本三代実録]]の[[貞観 (日本)|貞観]]13年([[871年]])の条に、以下の記述がある。 4月に噴火があり多大な被害と多数の死者が出たことが[[出羽国|出羽]][[国司]]より報告され、報告を受けた朝廷が[[陰陽寮]]にて占いを行ったところ、[[弘仁]]年間の鳥海山噴火後まもなく戦乱があったのは国守が凶変ある毎に祈祷したが後の報祭を怠ったため大物忌神がお怒りになったためと結果が出た。よって鎮謝報祭が行われなければ戦乱が起こるので奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。 この記述は[[鳥海山]]噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている。
 
元来、[[鳥海山]]は山名が無く<ref>いつごろから鳥海山と呼ばれたかは定かでないが、[[暦応]]5年([[1342年]])7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した[[鰐口|鰐口銘]]に、鳥海山とあるものが文字として確認できる最古のものである。</ref>、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むと言うことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生するものだと朝廷は考えた、これがこの山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では考察している。また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、[[天慶]]2年([[939年]])に[[天慶の乱 (出羽)|秋田夷乱(天慶の乱)]]発生の報が到達するや<ref name="kiryaku">[[日本紀略]]の記述による。</ref>朝廷で物忌が行われた<ref name="geki">[[外記|外記日記]]の記述による。</ref>ことを挙げている。ちなみに同年にも鳥海山が噴火したとの記録がある。<ref name="honchou">[[本朝世紀]]の記述による。</ref>
 
===鳥海山の神威と神階昇叙===
[[鳥海山]]の噴火は大物忌大神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より[[神階]]の昇叙が行われた。[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])[[従五位|従五位上]]であった大物忌神を[[正五位|正五位下]]に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。
 
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===神仏習合===
[[斉衡]]3年([[856年]])から[[貞観 (日本)|貞観]]12年([[870年]])の間に出羽国では[[定額寺]]が6ヶ所指定され、また[[日本三代実録]]の[[仁和]]元年([[885年]])11月の条では飽海郡に[[神宮寺]]があったと記していることから、出羽における[[神仏習合]]はこの時期に始まったと推測される。大物忌神へ奉仕する職制は[[神仏習合]]以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する[[社家]]、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、[[中世#日本|中世]]には[[本地垂迹|本地垂迹説]]により'''鳥海山大権現'''と称して社僧が奉仕をしていた。後に[[明治]]の[[神仏分離]]により神社となり、大物忌神社に復している。
 
===出羽国一宮===