「エドアルド・キヨッソーネ」の版間の差分

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== 概要 ==
[[Image:Meiji_tenno1.jpg|thumb|200px|キヨッソーネ作の最も有名な肖像版画の一つ。明治天皇の肖像版画]]
キヨッソーネはイタリアの[[アレンツァーノ]]([[ジェノヴァ県]])に生まれ、美術学校で[[銅版画]]の彫刻技術を学んだ。彼の写実力には定評があり、[[パリ万国博覧会 (1867年)|1867年]]開催のパリ万国博覧会]]に出品した銅版画が銀賞を受賞している。その後紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していた[[ドイツ]]の[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]にあった[[ドンドルフ・ナウマン]]社に[[1868年]]に出向した。当時ドンドルフ・ナウマン社は日本の明治政府が発注した政府紙幣([[明治通宝]])を製造しており、彼も製造に関わっていた。
 
キヨッソーネが来日したのは[[1875年]](明治8年)のことであったが、当時彼は[[イギリス]]の印刷会社に勤めていた。招聘に応じたのは[[大隈重信]]が破格の条件(月額454円71銭8厘)を提示したこともあったが当時[[写真製版]]技術の発達が進んでいたこともあり、銅版画の技術を生かせる活躍の場を求めたこともある。
 
来日後、[[大蔵省]]紙幣局(現・[[国立印刷局]])を指導。印紙や政府証券の彫刻をはじめとする日本の[[紙幣]]・[[切手]]印刷の基礎を築いたほか、美術教育にも尽力した。特に日本で製造された近代的紙幣の初期の彫刻は彼の手がけた作品である。また、1888年には宮内省の依頼で[[明治天皇]]の[[御真影]]を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与された。また[[元勲]]の銅版画も残した。似ていない作品も少なくないが、例えば[[西郷隆盛]]画像については西郷本人と面識がないうえに、西郷の写真も残っていなかったため、[[西郷従道]]と[[大山巌]]をモデルに合成したものであるという。また[[藤原鎌足]]や[[神功皇后]]の肖像も彼が描いたものであった。また日本の欧米諸国の技術水準で製造された最初の[[普通切手]]シリーズの小判切手は彼がデザインしたものであった。
 
雇用期間が終了した[[1891年]](明治24年)には退職金3000円と年額1200円の終身年金を政府から与えられた。これらの莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品を購入するのに当てたほか、寄付したという。彼の収集品は、[[ジェノヴァ]]市の[http://www.japanitalytravel.com/banner/genova/genova3.html キオッソーネ東洋美術館]に収蔵されている。彼は最期まで日本に留まり、1898年に東京・[[麹町]]の自宅で逝去した。独身を通したため(内縁関係にあった日本人女性がいたといわれる)、遺言で遺産の3000円を残された召使が分配したという。