「イザベラ・オブ・アングレーム」の版間の差分

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[[1200年]]、ラ・マルシュ伯爵の息子ユーグ10世ド・リュジニャンと婚約の身であったが、ジョン王と結婚した。ジョン王には、アングレームを身内に抱き込むことで、[[フランス王国|フランス]]と、甥の[[ブルターニュ]]公[[アルテュール1世 (ブルターニュ公)|アルテュール1世]](アーサー・オブ・ブリタニー)支持の[[アンジュー]]、[[メーヌ]]、[[トゥルネ]]、それらと対峙する母[[アリエノール・ダキテーヌ|エレアノール]](アリエノール)の所領[[アキテーヌ]]との間に楔を打つのが目的であったが、この強引な結婚が元となって[[ポワトゥー]]で蜂起が起こった。
 
王との間に2男3女を得た。長男は[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]として即位する。次男[[コーンウォール]]伯[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]は一時、[[神聖ローマ皇帝]]候補となった(統治はできなかった)。長女[[ジョーン・オブ・イングランド (スコットランド王妃1210-1238)|ジョーン]]は[[スコットランド]]国王[[アレグザンダー2世 (スコットランド王)|アレグザンダー2世]]の王妃に、次女[[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]]は神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の3度目の王妃になった。三女エリナーは再婚で[[シモン・ド・モンフォール]]の妻となった。
 
[[1220年]]、ジョン王の没後、かつての婚約者ユーグと再婚した。子女はイングランドの貴族となった。