「ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン (ランバル公)」の版間の差分

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'''ランバル公ルイ・アレクサンドル・スタニスラス・ド・ブルボン'''('''Louis Alexandre Stanislas de Bourbon, prince de Lamballe''', [[1747年]][[9月6日]] – [[1768年]][[5月6日]])は、[[フランス王国|フランス]]の貴族。王妃[[マリー・アントワネット]]の女官長[[ランバル公妃マリー・ルイーズ|マリー・ルイーズ]]が王妃[[マリー・アントワネット]]の女官長として知られる
 
==生涯==
パンティエーヴル公[[ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン]]と[[フェラーラとモデナの君主一覧|モデナ公]][[フランチェスコ3世・デステ|フランチェスコ3世]]の娘マリー・テレーズ・フェリシテ・デステ=モデーヌの長男として、[[パリ]]で生まれる。
 
年頃になると、放蕩の傾向が見られたために、父親のパンティエーヴル公は[[サヴォイア家]]傍系カリニャーノ公[[ルイージ・ヴィットーリオ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|ルイージ・ヴィットーリオ]]の娘マリー・テレーズ・ルイーズをその妃に選び、1767年1月17日に[[トリノ]]で代理結婚式、次いで31日に本人の結婚式を挙げさせた。しかし、この結婚によって、パンティエーヴル公はその目的を達することはできず、ルイ・アレクサンドルはすぐに放蕩を再開した。子どもを作ることなく、1年もたたずに性病によってルーヴシエンヌ城で死亡した。
 
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