「三日平氏の乱 (平安時代)」の版間の差分

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8月26日、鎌倉に義経から信兼の子息3人を宿所に呼び寄せて誅した事、信兼が[[出羽国|出羽]][[国司|守]]を解官されたとの報告が届き、9月9日、信兼以下平氏家人の京都における所有地を、義経の支配とするよう頼朝から書状が出された(『[[吾妻鏡]]』)。
 
藤原忠清は翌元暦2年([[1185年]])まで潜伏を続けて都を脅かした。[[一ノ谷の戦い]]以降、[[源範頼]]以下主な鎌倉武士は帰東しており、またこの反乱の最中の8月8日に、範頼は平氏追討のために鎌倉を出立し、9月1日に京から西海へ向かっている。平氏残党に対する都の不安は大きく、後白河院は治安維持のために翌年正月の義経の[[屋島]]出撃を引き留めており、義経の検非違使・左衛門尉任官は、このような情勢の不安による人事であった。近年の研究では、義経が平氏追討から外されたのは、後年の編纂書『[[吾妻鏡]]』が記すような無断任官による頼朝の怒りのためではなく、京都の治安維持に義経が必要であり、法皇や貴族たちの強い反対があったためと考えられている。
 
なお、平信兼と平家継は[[源義仲]]打倒の立場から、義経の入京に協力した[[京武者]]たちであった。『吾妻鏡』では信兼の息子たちが事件の張本であったとするが、彼らは義経の屋敷に出向いている事から、反乱と深い関わりは持っていなかったと見られる。信兼追討の背景には、独立性の強い京武者の排除、従属させようとする頼朝の方針があったと考えられる。
 
== 脚注 ==