「上地雄輔」の版間の差分

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影虎 (会話 | 投稿記録)
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1991年(小学生時代)、1994年(中学生時代)と、全日本選抜メンバーとして世界大会に出場。小学生時代はキャプテンとしてチームをまとめ、4番を張る。中学時代でも軟式野球クラブチームの横須賀スターズでキャプテンを務める。また、中学三年生の年、所属チームは全国大会出場、関東大会優勝を果たした。ちなみに、横須賀スターズでの練習、試合、自主練習などに専念するべく、中学では形だけ理科部に所属した。
 
中学時代に計38校からスカウトを受け、名門[[横浜中学校・高等学校|私立横浜高等学校]]に進学。在学時は硬式野球部に所属し、[[捕手]]のポジションを務めた。その1年後輩に[[松坂大輔]]([[ボストンレッドソックス]])がおり、松坂が入部して最初にバッテリーを組んでいたのが上地だった。2年生から背番号2を背負ったが、2年夏の甲子園予選の試合中に右肘の神経を断裂したため正捕手の座を1年後輩の[[小山良男]](現[[中日ドラゴンズ]][[ブルペンキャッチャー捕手]])に譲った。
 
右腕の神経を断裂した際、監督や家族にも言わず、回復していると嘘をつき数え切れないほどの病院を五ヶ月間一人で渡り歩いたが、回復の兆しはなく、部屋で一人泣く日もあったという。しかし、泣いていたのを見つかり全てを明かし、その翌日枕元に置いてあった母親からの手紙の最後の三行に、「降り止まない雨はないんだよ」「出口がないトンネルはないんだよ」「今が最低だと思うなら、これ以上の最低はないんだよ」と記述してあり心打たれたという。それを読んだ上地は、「夢に向かって日々努力できないなら死んだほうがましだ」と書いた紙を壁に貼り、両親らと病院をしらみつぶしに探した。そして、治る可能性は五分五分という手術を迷わず受け、リハビリを経てなんとか大会に間に合わせた。