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古代の[[中国]]では[[諸侯]]の長をいう。[[礼記]]・王制篇に「千里之外設方伯」とあるように、王都より千里内は「王畿」と呼ばれ、その外部を「方」といった。[[殷|殷(商)]]は諸国を[[九州 (中国)|九州]]にわけ、八州それぞれに方伯を置いて諸侯を束ねさせたという。伯=覇であり、これはのちの「[[覇者]]」(諸侯の盟主)へとつながっていく。
 
方伯の称は[[漢代]]の[[州牧]]、[[刺史]]、[[唐]]の[[観察使]]などの[[雅号]]として後代まで使用された。
 
==ドイツ==
[[ドイツ語]]では '''Landgraf''' といい、多くの場合[[神聖ローマ帝国]]もしくはかつてのその領域にできた諸国家で、「[[伯爵]]」の代わりに、神聖ローマ帝国[[皇帝]]に封建的な義務を直接負っていた者に使用された[[称号]]。その支配領域は[[公爵]]・[[司教]]・[[宮中伯]]のような中間の権力の言いなりにならずに、時々大きく拡大された。[[ロタリンギア|低ロタリンギア]]に対して[[1086年]]以降使用されたという最初の記録以降、この称号は神聖ローマ帝国の時代を通じて生き延びた。方伯は通常主権を行使した。方伯の意思決定力は公爵のそれに相当した。
 
その後、[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]の[[大公]]が[[20世紀]]初頭に[[テューリンゲン]]の方伯を兼ねたように、貴族の補助的な称号として時々使用されたが、[[第一次世界大戦]]の後には使われなくなった。