「後百済」の版間の差分

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[[920年]]、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に[[高麗]]南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端が切って落とされた。当初、勢力は互角であり、[[922年]]、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。[[後唐]]にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。
 
[[926年]]10月、後百済は、[[金州]]を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。王建は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、[[927年]]3月、[[太祖 (高麗王)|王建]]はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。[[929年]]、後百済は、[[慶尚北道]]で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。
 
[[930年]]、高麗は反撃に転じ、[[古昌郡]]において後百済を大敗させた。[[934年]]、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。