「府兵制」の版間の差分

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==府兵制の崩壊==
府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはかなりの重い負担であった。[[玄宗 (唐)|玄宗]]期には[[均田制]]自体が行き詰まり、農民が納税できなくなってきたこと。唐の領土があまりにも大きくなってしまって、土着農民の感覚からいうと、あまりにも遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたことなどから逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなる。
 
また府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は[[常備軍]]を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、[[羈縻支配|羈縻州]]に対して[[都護府]]が設置され、その下には募兵による行軍がいた。
 
[[儀鳳]]年間([[676年]] - [[678年]])に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たる事になる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する[[節度使]]が登場する事になる。