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学校法人慶應義塾へ一部転記
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=== 塾訓・目的 ===
 
[[学校法人慶應義塾]]
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==== 塾訓 ====
*「独立自尊」。従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤は「一身の独立なくして一国の独立なし」<ref>福澤諭吉、『学問ノスゝメ』</ref>と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。
*「実学の精神」。「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味である誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日に言う「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる<ref>福澤諭吉、「西洋の実学」、『福澤諭吉著作集』第5巻</ref>。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」<ref>福澤諭吉、「慶應義塾改革の議案」</ref>)、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の[[学制]]の制定に大きく影響している。他に建学理念に「実学」をうたう大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・[[中央大学]]、創立者[[増島六一郎]]らと共に、[[馬場辰猪]]ら福澤門下が前身である三菱商業学校と明治義塾にて教育)、商法講習所(現・[[一橋大学]]、創設に際して福澤が森有礼に助力)には福澤の直接的影響があり、今日でも残っている例である。
*「半学半教」。ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」<ref>福澤諭吉、「慶應義塾改革の議案」</ref>)。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「〜君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けるのをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」<ref>「慶應義塾改革の議案」</ref>)。
*「社中協力」。元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うと共に、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。
*「塾生皆泳」。「教育および研究」の項を参照。
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==== 慶應義塾の目的 ====
慶應義塾には「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは[[1896年]](明治29年)[[11月1日]]に、[[芝]]・[[紅葉館]]で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)で行われた福澤諭吉の演説を元に、福澤自身が書き直したものである。内容は以下の通り。
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=== 幻の李登輝の講演 ===
慶應義塾大学文化団体連盟に所属する経済新人会というサークルが、[[2002年]]11月、[[中華民国]]([[台湾]])前総統[[李登輝]]を迎える[[講演会]]を企画した{{要出典|date=2008年11月}}。日本政府が来日に必要な[[査証|ビザ]]発給を拒否する構えを示したため、李登輝は訪日を断念して実現しなかった。
 
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[[学校法人慶應義塾]]
=== 創立150年式典の開催 ===
*[[2008年]][[11月8日]]、[[日吉]]キャンパスで[[天皇]]・[[皇后]]両陛下臨席のもとで創立150年記念式典が開催された。司会を務めたのは塾員である[[石坂浩二]]と[[遠藤玲子]]。式典には塾生・塾員約1万人のほか、[[早稲田大学]]や[[ハーバード大学]]、[[ケンブリッジ大学]]の代表者等、慶應義塾にゆかりのある国内外の来賓が数多く参列した<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081108AT1G0800S08112008.html 両陛下、慶応創立150年式典に]</ref>。式典の模様は三田キャンパス、湘南藤沢キャンパス、大阪リバーサイドキャンパスに中継され、さらには[[インターネット]]を通じて全世界にも同時中継されている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/education/081107/edc0811070800003-n1.htm 【慶應義塾 創立150年】三田、湘南、大阪に生中継]</ref>。式典において天皇陛下は「今後も国の内外で活躍する人材を数多く育て、送り出すことを期待しています」と[[おことば]]を述べた<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/okotoba-h20-01.html#keio150 宮内庁ホームページ]</ref>。天皇家と慶應義塾とは、元塾長の[[小泉信三]]が陛下の教育係であった等の点で接点があり、塾が主催した「小泉信三展」でも天皇皇后両陛下が来塾している<ref>[http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080516/imp0805161113000-n1.htm 両陛下、「小泉信三展」ご鑑賞 慶大図書館旧館]</ref>。ちなみに、創立90年と100年の節目においては[[昭和天皇]]が式典に臨席している<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2006/249.html 慶應義塾の周年行事]</ref>。
*記念式典翌日には同じく日吉キャンパスにおいて連合三田会大会が開催され、[[加山雄三]]、[[紺野美沙子]]、[[櫻井翔]]などの塾員が登場した<ref>[http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008110901000413.html 加山雄三さんらコンサート、慶応義塾創立150年記念]</ref>。
 
== 附属学校 ==