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=== クモワカ伝貧事件 ===
クモワカは[[1952年]]の夏に体調を崩し発熱した。クモワカを診察した[[京都競馬場]]の[[獣医師]]は[[馬伝染性貧血]](伝貧)と診断し、それを受けて[[京都府知事]]の[[蜷川虎三]]は[[家畜伝染病予防法]]第17条により同年12月に同月末までに殺処分を行う旨の通告を出した。しかし伝貧に感染しているという決定的な証拠は現れず<ref>感染の証拠がないクモワカが伝貧と診断された原因については、調教師の杉村政春と京都競馬場の獣医師との間軋轢あったからだとも、あるは京都競馬場に出入りしていた獣医師間の派閥争いに巻き込ま、相手派閥の獣医師の評価を貶める事を目的に偽りの診断が下された、などの説が存在している。</ref>、さらに隔離用の厩舎にいたクモワカの健康状態は日を追うごとに回復を見せていたことから厩舎関係者は感染していないのではないかと疑うようになった。馬主の山本谷五郎はクモワカを試験治療用の学術研究馬にしてほしいと[[京都府]]に要望し、その結果殺処分は延期され引き続き隔離厩舎に置かれることとなった。
 
[[1955年]]9月、クモワカ陣営は京都府から隔離厩舎改築のため同馬を移動させるよう要請され、[[北海道]][[早来町]]の[[吉田牧場]]へ移送した。通常競走馬の移送には移動証明書が必要であるにもかかわらずクモワカは証明書なしに移送されたことから行政の目を盗んで密かに移送されたともいわれたが、山本によると実際には京都府がクモワカは競走馬ではなく一般の馬であるから獣医師の証明書のみで移送可能と解釈上の便宜を図ったことで移送が実現した。吉田牧場はクモワカを繁殖牝馬として使役することにし、[[1956年]]春から[[種牡馬]]との交配を開始。同時に同年8月には丘高という繁殖名で軽種馬登録協会に登録申請を出し、5か月後の[[1957年]]1月に申請が受理された。しかし[[1958年]]に協会は丘高がクモワカであることを察知し、殺処分の通告が出されている馬の登録はできないと登録の取り消しを通告した。山本はこの処分に反発し、知事による殺処分通告を取り消すよう京都府に働きかけ、[[1959年]]3月に蜷川は「再検査の結果陰性と認められた」として取り消し通知を出した。
 
山本は取り消し通知が出たことを根拠に協会に対し再登録を申請したが、協会は「現在は陰性でも1952年夏の時点では陽性だった可能性があり、再発の可能性もある」として申請を拒否した。これを受けて山本はクモワカと1957年に生まれた産駒「天佑」の登録を請求する[[民事訴訟]]を起こした。[[東京地方裁判所]]で行われた一審は山本の敗訴に終わったが二審の審理中の[[1963年]]に複数の馬主および競走馬生産者が協会に対しクモワカとその産駒の登録を拒否するのは不都合であるとする内容の臨時総会請求趣意書を提出したことで協会は態度を軟化させ、7月に「クモワカの健康診断を行い陰性であると診断された場合には登録を認める」と議決した。診断の結果クモワカは陰性とされ、9月にクモワカとすでに生まれていた産駒の登録が認められた。それに伴い民事訴訟は係争事由がくなり、終結した。
 
この一連の騒動・紛争は「クモワカ伝貧事件」といわれる。[[寺山修司]]は自身の競馬随筆において「競馬界の[[吉田岩窟王事件|岩窟王事件]]」と表現している。

事件の終結を受け、すでに生まれていた産駒のうち3頭は競走馬としてデビューした。1963年の時点で7歳と高齢だった天佑(競走馬名ツキサクラ)こそ未勝利に終わったものの、ワカクモは桜花賞を優勝するなど11勝を挙げ、ヤマサクラは7勝を挙げた。また事件終結後に生まれたオカクモは4勝、タチクモオーは13勝を挙げた。
 
== 繁殖成績 ==