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[[1952年]]の[[ヘルシンキオリンピック]]では、[[イタリア]]をはじめとする強豪相手に4連勝、合計18得点1失点という圧倒的な強さで金メダルを獲得している。
 
[[1953年]]11月には、[[ロンドン]]の[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]に対して6-3で勝利している。これは、サッカーの母国であるイングランド代表が英国四協会とアイルランド以外のチームにホームで初めて敗戦した試合('''世紀の対決''', ''Match of the Century'')として歴史に残っている。イングランドとは翌年のワールドカップ直前の[[1954年]]5月に[[ブダペスト]]で再戦し、この時も7-1というさらなる大差で破っている。この試合はイングランド代表の国際Aマッチにおける最大得点差での敗戦として記録に残ることとなった
 
1954年[[7月4日]]、ワールドカップ決勝戦という最も重要な試合で西ドイツに2-3で敗れたことにより、無敗記録が4年で途切れることとなった。この敗戦には、下記のような状況も影響していたと考えられる。
*キャプテンのプスカシュは、予選リーグ第2戦の西ドイツ戦で[[ヴェルナー・リーブリッヒ]]からファウルまがいのタックルを受けて足首を負傷しており、決勝トーナメントの準々決勝および準決勝は欠場せざるを得ない状況だった。決勝戦には無理をおして復帰したものの、怪我は癒えておらず本調子程遠かった。
*ハンガリーは準々決勝で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]と対戦したが、豪雨の中で行われたこの試合は、後世「ベルンの闘」と呼ばれる、乱闘による退場者とケガ人が続出する荒れた試合となった。試合後、更衣室に戻っても乱闘は続き、試合には欠場したプスカシュもそちらには参加していたと言われる。続く準決勝の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦も雨の中での延長戦となり、選手たちは満身創痍の状態となっていた。
*ハンガリーが上記のようにブラジルやウルグアイ([[1950 サッカー・ワールドカップ|ワールドカップ・ブラジル大会]]優勝国)といった強豪国と決勝トーナメントで対戦することになった背景には、西ドイツの監督であったゼップ・ヘルベルガーの深謀遠慮があった。この大会では、現在のようなタスキ掛けの組み合わせが行われず、4組に分かれた予選リーグの各組1位同士、2位同士のチームが準々決勝で対戦することになっていた。そのため、1次リーグ2組を1位で通過すると1組を1位で通過するであろうブラジルと対戦することになるため、[[ゼップ・ヘルベルガー]]は1次リーグ第2戦のハンガリー戦でえてメンバーを落として敗戦し、2位通過とすることで決勝トーナメントでの強豪との対戦を避けたのである。その目論見は見事に当たり、ハンガリーが上記の通り満身創痍だったのに比べて、西ドイツは準々決勝はユーゴスラビア、準決勝はオーストリアにそれぞれ90分で勝利し、余力を持って決勝に臨んでいた。
*試合終了直前にプスカシュが同点ゴールしたかに見えたが、[[オフサイド]]の判定となった。決勝戦を裁いたのはイングランドのであり、直前の対イングランド戦の2回の勝利でイングランドのプライドを打ち砕いていたことがその不可解とも思える判定に影響したのではないかとも憶測されている。
 
==終焉・その後==