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'''円観'''(えんかん、[[弘安]]4年[[7月17日 (旧暦)|閏7月17日]]([[1281年]][[9月1日]]) - [[正平 (日本)|正平]]11年/[[延文]]元年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]([[1356年]][[4月2日]]))は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[天台宗]]の[[僧]]。字は'''慧鎮'''(えちん)。[[常用漢字]]を使って'''恵鎮'''と書かれることも多い。[[後伏見天皇|後伏見]]・[[花園天皇|花園]]・[[後醍醐天皇|後醍醐]]・[[光厳天皇|光厳]]・[[光明天皇]]の5帝に[[戒]]を授けたために「'''五国大師'''」の異名を得た。
 
[[近江国]][[浅井郡]]今西荘(現、[[滋賀県]][[東浅井郡]][[湖北町]]今西)で生まれる。[[永仁]]3年([[1295年]])に[[比叡山]][[延暦寺]]に入寺して授戒を受けて大乗戒である円頓戒を学んだ。だが、それに飽き足らず、8年後に比叡山を降りて師の[[興円]]とともに北白川に律院([[元応寺]])を建立し、円頓戒の宣揚につとめた。後醍醐天皇の帰依を受けて[[嘉暦]]元年([[1326年]])京都[[法勝寺]]の[[勧進職]]となり同寺の再興に務め、その功績によってそのまま住持となる。[[文観]]・[[忠円]]らとともに後醍醐天皇の倒幕計画に参画し、[[延暦寺]]・[[東大寺]]・[[興福寺]]など大寺の僧兵を募って[[北条氏]]を調伏するための祈祷を行った。[[1331年]]([[元徳]]3年・[[元弘]]元年)倒幕計画が幕府側に知られて六波羅に逮捕され、[[陸奥国]]への流罪に処せられた。
 
[[建武の新政]]では罪を赦され法勝寺に戻り[[東大寺]][[大勧進職]]に任じられたが、南北朝が分裂すると北朝側について活躍した。著書については円頓戒に関するものを多く残している。また、遠国四戒壇([[鎌倉]][[宝戒寺]]・[[加賀国]][[薬師寺]]・[[伊予国]][[等妙寺]]・[[筑紫国]][[鎮弘寺]])に円頓戒の道場を開くことができたのは円観の力によるものとされる。円観の系統(恵鎮門流)は[[光宗 (僧)|光宗]]・[[惟賢]]・[[運海]]らに継承され、天台宗でありながら[[戦国時代 (日本)|戦国期]]まで延暦寺とは別の集団を形成していたと考えられている。
 
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[[Category:戒律]]
[[Category:南北朝時代の人物 (日本)]]
[[Category:近江国の人物]]
[[Category:1281年生]]
[[Category:1356年没]]
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